うえまつさとし君について思うこと

あくまでも海外、タイ側からの見方である

植松聖(さとし)容疑者(26才)ような人間はタイにはあんまりいない

というか個人による大量殺害のような話をあまり聞いたことがない

(クーデターとか暴動とかはあるが)

日本から来た観光客のみなさんの意見を集約すると

タイはゆるゆるでいいや

なんかやる気ないね

かなりいい加減だな

緊迫感がないわ

という感想が多い

(かなり表面的だが旅行者の意見としては十分である)

旅行者はこの半分眠ったような国民の行動を

リラックスできる理由だと捉えている

一方、日本で生きていかねばなららない人間にとって

現実は冬の寒さより厳しいのである

日本にはこんな不文律がある

きちんと学業を修めていなくてはならない
(要するに中卒ではダメってことだ)

きちんと就職していなければならない
(要するに一流企業でないとダメだってことだ)

きちんと家庭をもっていなければならない
(独身ではダメだということだ)

きちんとした場所に住んでいなければならない
(四畳半のアパートではダメってことだ)

結婚した人間であれば

きちんと子どもを産み育て、親の面倒も見なければならない
(親の面倒を見る前にこっちが倒れてしまうよ?)

さらにきちんと世間から認められた人間でなければならない
(認められるってどういうことよ?)

日本人としての規範であり

憲法である

日本人はほぼ99パーセントこのがんじがらめの思想に縛られているので

精神科に入院している人はすでに”まっとうなコースを外れた者”として扱われる

知的障害者だけでなく、収入の低い人、地位の低い人、病弱な人も、正規のコースを外れた者に分類される

就職してない人、就職できない人、生産性の低い人も同じ

結婚しない人、結婚できない人、子どもができない人も同じ

汚い仕事、きつい仕事、危険な仕事に従事している人も同じ

年金生活者、老人、体が不自由な人、心を病んでいる人も同じ

さらに、ジェンダーを変更した人や、同性を愛する人も同じカテゴリーに分類される 

(要するにわれわれゲイは最初から不具者なのだ、日本では)

ときどきわれわれのように海外で暮らしている人間も

異端視されることが多い

要するに社会からアウトローと目されている人(その概念を容認している人も)は、

すべてまっとうな軌道を外れた人間としてみなされるのである

だから、さとし君は、そういう人たちの存在を

”抹消”することによって、彼らと彼らの家族の苦痛を和らげたいと思ったのであろう

ある意味、愛に基づいた行為とも取れるが

天の道には反している

さとし君に他者の人生の長さを決める資格はなく

まして手を下す権限も与えられていないのに

障害者は生きていても仕方がないから、はい、私が楽にしてあげますと

ハサミで切るようにバッサリ

人生の糸をちょん切ってしまったのは短絡的と言わざるを得ない

一方で、障害者を家族にもつ人間のなかには世話の必要が無くなったわけで

ホッとしている人も少なからずいることだろう

でも、それは一時的な安堵で

時間が経ったあとで、その家族だって

縁あって生まれてきた自分の息子や娘が他人の手によって

命を絶たれたことを死ぬまで嘆き悲しむだろう

わが身を呪い、障害を持ったわが子を支えきれなかったことを生涯後悔するだろう

このような事件を、社会のせい、個人のせい、他人のせいにするのは簡単だが

背景はかなり複雑なようである

では、なぜタイではこのような事件がほとんど起きないか、というと

ほとんどのタイ人はその日暮らしだからである

彼らはきょうを生きるのに精一杯であり

他者からどう思われるかなど

気にしている暇はないのだ

それでも楽しそうに見える彼らの行動や会話からは

彼らのなかに
貧しさゆえに
家族で助け合わないと
つまり、誰かが家族を助けないと
やってゆけない現実があるのだ

貧しさが持つ唯一の強みである

最近、パタヤーのボーイズタウンでも
ラオス、カンボジア、ミャンマーからの出稼ぎゴーゴーボーイたちが多くなった
概して彼らの微笑みはタイ人よりも深く
仕事ぶりも熱心だ

彼らは背中に弟や妹だけでなく、祖国に残してきた父ちゃんや母ちゃん
じっちゃんやばっちゃんを乗せているのだ

一刻もはやく送金しなければならない
一バーツだって多く送金してやらねばらならい

最近はタイが金回りがよくなってきたと思っている人がいるが
それは間違いであり、単なるハイパーインフレが進行しているだけなのである

しかし、周辺国から来た人間にとってタイは明らかに
カネが稼げる土地なのである

従って、タイで働くラオス、カンボジア、ミャンマー人は
その顔つきが違うのである

さてさて、植松容疑者を個人レベルで見たいと思う
植松聖(さとし)君は個人として、どうすべきだったのだろうか?

いまさら何をすれば良い、という段階ではない
極刑は免れないだろう

ああすればよかった
こうすればよかった的な論理になってしまうが

あくまでもタイに住む側からの意見を述べさせていただければ
さとし君には愛する対象物があったのだろうか?

それは家族であったり、恋人であったり、友人であったり、
それは仕事であったり、夢であったり、趣味であったりすると思う

さとし君、ゲイだとは思わないが
ゲイであろうが、なかろうか
彼に心から愛する人がいたら

命の尊厳を軽視するような行動は
絶対に取らなかっただろう

そんなことをすれば
愛するものすべてを失うことになるからだ

もし、さとし君にスッテキな彼女がいて

「そんなことしたらアタシは悲しむよ」

と言ってくれたら、思いとどまっただろう

というか人を殺すなんて、考えもしなかっただろうよ

おそらくさとし君にはそこまで愛する人がいなかったのだ
ただのひとりもいなかったのだ
彼は淋しかったのだ
心の底から

今回の事件は、さとし君の孤独に端を発しているのかもしれない
一方で背景には・・・

高度に管理化された社会
個性や独自性を尊重しない
社会
生産性のみを追求する社会
外見を気にする社会
忙しすぎる社会

の存在があることをわれわれは忘れてはならないと思う。

このなかで最悪なのは、忙しすぎる、という事情だ。
これこそが人間に、考え直すきっかけを与えず、次々と起こる事件の教訓を忘れさせてしまうのである

かくして愛を無くした社会は
おのずと崩壊へと進んで行き
最後にはすべてが無と帰してしまうのである

であれば・・・

私はさとし君に言いたかった 

おい、さとし

人を殺すくらいのエネルギーがあったら

パタヤーに来ればよかったのに

こっちで好きな子でも作れば

人生に張りが出るし

輝くことができたかもしれない

やり直すきっかけになったと思うぞ

みなさんのご意見をお聞かせください

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