パタヤ・ロックダウンで、日本のマスコミ、ブロガー、YouTuberにうっ憤溜まる

私はこれまで、マスコミというのは、常に事実を報道し、国民生活向上のために有益な情報を提供してくれるありがたい存在だと思っていた。

 

ニュースキャスターやアナウンサーは憧れであり尊敬の的であった。

 

だがインターネット時代になってマスコミの放つ事実は必ずしも事実でないことに気が付いた。

 

それどころかマスコミというのは公共の電波を使い、民衆に思い込みをさせ、悪い方向に誘導し、事実から目を背けさせようとしていることがわかった。

マスコミの別の顔は極悪集団であり、極端な営利追及団体であることがわかってきた

いまマスコミは世界最悪の犯罪組織であると私は思っている。

 

私を含めて、どんなに愚かな人間でも、少し考えればわかることだが、人間は欲望の動物であり、欲望を叶えるためには手段を選ばない種族だ。

 

それを思えば、メディアというのはいかなる手段を使っても我々一般大衆を扇動し、彼らの動いてほしい方向に導こうとするのは、当たり前の行為と言える。

マスコミが大衆を扇動するとは、つまり我々国民の利益になるようなことをするのではなく、我々の労力や資産を支配層(この場合は政府とかその背後にある闇の組織や権力団体など)のために無意識に捧げるよう人々を説得することである、いや洗脳することである。

 

わが日本国民もそこまで愚かではないので、何が常識で何が常識でないかぐらいはわかっているはずだが、現在の一般人の行動を見ている限り「君子危うきに近寄らず」を「体制に逆らうと痛い目に遭うから」「何もしないほうが良い(外出しない、行動しない、動かない)」

的な行動をしているだけだ。特にオリジナルな思想を持った人間はおらず、ほとんどの人間はマスコミで得た情報をもとに行動しているに過ぎない。

 

政治家のなかには、国民への行動を促すとき、国民の生活を守るとか、命を守るとか、子どもを守るとか、愛する人を守るため、とか もっともらしいことを言っているヤツがいるが、それもこれも責任を取りなくないのと、次の選挙のためだけなのである。

 

良い例が今回のコロナウイルス騒ぎである。

一言で言ってしまえば、今回の大惨事は、安倍政権が中国に良い顔をしたいばかりに、国民の命を犠牲にして、中国に忖度した結果なのである。

そもそもそういう自民党を選んだのは国民なのだから、その国民の責任なのである。従って、安倍政権がもたらす不利益を被って当然である、と私は思っている。

 

実際に、コロナ騒ぎとなっても、春節期の中国人の受け入れを辞めなかったし、その後も習近平の来日が延期となるまで中国人入国を制限しなかった。

 

このようなバカげた政府を支持している国民もバカだが、本来はその異常事態を問いただす役割の野党も無能なので、強烈な反対意見を述べるだけで、際立った意見やアイデアを出せないでいる。

 

しかし、もっとも許せないのは、ゴミのような情報、人々の恐怖を煽り立てるような情報を垂れ流しているマスゴミである。

 

このような時期にあって必要なのは焦って精神的な安定を欠くことではなく、人々に冷静な行動を促すように伝えることだろう。大衆に希望を与え、建設的発展的な思考を与えることだろう。

 

現実には、下劣で卑劣なメディア(ブログやYouTubeも含む)は、不安材料ネガティブ材料ばかり探してきて、それを視聴者に丸投げして、あとはサイト登録と「いいね」ボタンを押してくださいね!ばかりである。

 

田舎の爺さん婆さんは、あるいは暇な主婦、あるいは子どもたちは、昼間っからやることがないから、ずっとNHKを見たりラジオを聞いたりして過ごしている。

 

若い人たちはキャーキャー言って怖がっているだけだ。

特に若い男はチンコをいじくるかスマホをいじくっているかのどっちかだ。

 

そんな人間めがけてマスコミはこれでもか、これでもか、という量のヘドロのようなネガティブ情報を流し続けている。

 

 

小学生の頃、担任の教師が

「みなさんテレビばっかり見ていてはいけませんよ!」

「テレビばっかり見ているとモノを考えない人間になってしまいますよ!」

とよく言っていたが、それは正しかった。

 

現代はまさにそういう時代になってしまった。

 

10%の人間が誤情報を流し、残りの90%がそれに従っている。

我々は、気が付けば、家に帰ってテレビのスイッチをONにしてヘラヘラ笑ってそれを見ている。

最近では友達に電話することもなく、LINEで会話し、スマホやパソコンでお気に入りの動画を見て余暇を過ごしている。

これしかやっていない。

恐ろしいことだ!

 

今回の騒動をはっきり申し上げると、バカ政治家を国会に送ったのもバカ国民であり

意識の低いバカ国民は、当然意識の低いバカ政治家が国を動かすことを許しているので

今回のダイヤモンドプリンセス号対応に始まった政府の無策や中国への異常なまでの忖度(スマイル)は

日本という国家を滅ぼし、国民の命を危険にさらしている

という事実を我々は知らなくてはならない。

 

最後に菌をばらまいたのは中国か米国かの議論、についてだが・・・どちらでも良いと思う。

 

 

仮に、中国が覇権と勢力拡大のために菌をバラまいたとしても、結局自国民を犠牲にしているし

 

米国の闇勢力がイルミナティ等の言いなりになって、”世界の人口削減” という法外な目標に向かって、生物テロを実行したとしても

結局、悪い結果だけが、自分たちのところへ戻ってきている。

それが現在の結果(感染者数と死亡者数)によく表れているだろう!!??

 

だから姑息な手段を使って人類を滅ぼそうとしても結果は同じなのである。

 

我々は最終的には生き延びるか滅びるかという運命に晒されているものの

 

世界の歴史を見れば、人類は滅亡しなかったのだ。

 

ペストも黒死病もスペイン風邪もエボラもSARSも乗り越えてきた。それなりの代償は払ったが。

世界はそれらを知恵をもって対処し、問題を克服した。そのあと社会はがらりと変化した。

我々は試練を乗り越えて強くなったのだ。時間はかかったが。

 

それは物事はいつでも、闇の人間たちの目論見とは真逆の方向に進む、という事実なのだ。

 

覇権を握りたい支那もアメリカも、世界のマスコミも、もう終わり、ということだ。

えげつない商売をして利益を上げてきた大企業も、国家と結託して儲けてきた企業も目論見はいよいよ終わりそうだ、ということだ。

さらに近年、ひとりよがりの情報を流して読者を惑わしてきたブロガーや、ゴミみたいな知識を広めて視聴者を言いくるめてきたYouTuberたちもそろそろ年貢の納め時、ということだ。

 

どんなに偉そうなことを言っても、どんな偉そうなことを言っても、事実がそうでないのだから事実には勝てないということだ。

 

メディアがあらゆる情報で人類を不安の底へ突き落そうとしても、そうならないのは、人類には生物としての根本の強さがあるからだ。

 

結局、上記のようなヤツラはあとしばらくは生きられるだろうが、ある時期が来たら、ほな、さいなら、ときれいに掃除される運命にある、ということだ。

 

ゲイおやじのショパンへの思い(後編)

ゲイおやじのショパンへの思い(前編)

に続いて【後編】を書きました。

6.水谷豊「赤い激流」の影響を受けた日々
7.初めての恋人とヨーロッパ旅行
8.大学のピアノ愛好会に誘われる
9.タイ移住15年後、ショパンの祖国ポーランドへ
10.首都ワルシャワとショパン博物館


6.水谷豊「赤い激流」の影響を受けた日々

当時の二人はとても若く精悍であった

当時、巷ではドラマ「赤いシリーズ」が流行っていた。

『赤いシリーズ』とは、TBSが大映テレビと共同で1974年から1980年にかけて製作・放送した作品群のシリーズ名である。テレビドラマ9作品とテレビスペシャル1作品の計10作品であり、いずれの作品もタイトルが「赤い」から始まっている。

 

 

山口百恵宇津井健がシリーズのメインであったが、このドラマではなぜか、水谷豊竹下景子がメインであった。(彼らのほかには宇津井健、松尾嘉代、緒形拳、小沢栄太郎、石立鉄男などが出演していた、山口百恵はパリ音楽院に留学中という設定で、岸恵子はパリ音楽院の先生、というあり得ない設定だった)
このドラマに登場する第46回毎朝音楽コンクールでのピアノ課題曲の1曲目がフレデリック・ショパンの「英雄ポロネーズ」(ポロネーズ6番)(ポーランド生まれのピアニスト・ブレハッチが弾いている)であった。
この音楽コンクールを最後まで勝ち抜いた人間だけが、日本代表としてポーランドのワルシャワで4年に1度行われる【ショパンコンクール】に参加できるという設定であった。
ドラマ中で水谷豊がショパンの英雄ポロネーズを弾くシーン
(28:00頃)
さてこういったものに憧れ、熱くなり、やればできる、と思いこんでしまう性格の私は、飯田先生に内緒で、このポロネーズの6番(英雄ポロネーズ)をマスターしてしまったのだ。
その後クラスメイトたちは音楽の時間になると、先生が来る前に私に「赤い激流」つまりポロネーズの6番を弾いてくれとせがむようになった。
級友たちに生でショパンを弾いてやり、彼らにクラシックの醍醐味を教えてしまった私であったが、そのうわさは先生にも伝わってしまい、とうとう担任の竹下先生の知るところとなった。
ある日、竹下先生はHR(ホームルーム)の時間にこういった
「みんな聞いてくれ、オレはこのたび、テニス部に所属していて、コーラス部にもいる、そして学級委員長にして、生徒会役員の天才ひできに、ホームルームの1時間をあげようと思う。
これからみんなで音楽室へ行って、ひできのピアノリサイタルを聴こうではないか」
とても恥ずかしかったが、とてもうれしかった
竹下先生は生徒をおだてるのは得意だったが、先生自身もドラマで流れている赤い激流(ショパンのポロネーズ)を聴きたかったのだ。
先生がクラスのみんなにプレゼントした時間は、私がみんなのリクエストに答えるというコンサートの時間となってしまった。

7.初めての恋人とヨーロッパ旅行

パリのアイフルタワー
大学に入ってからは特にやりたいと思えることがなかったが、ずっと前から好きだったサッカーをやってみたいと思っていたので、取り敢えずサッカー愛好会に入部した。
しかし、たまたまサッカーの帰りに大学構内でピアノ演奏会のチラシを見かけたのは、入学してから2か月後のことであった。
「○○区民センター、○○大学ピアノ愛好会発表会、入場無料」とあった。
そこで何か不思議な縁を感じ、とりあえず行ってみることにした。
受付には演奏会用に着飾った女子学生たちとキリっとスーツを来た育ちの良い男の子たち(学生)がいた。のちに愛好会の先輩になる人たちであった。
受付に座っていたいかにもお坊ちゃまという顔立ちの、今で言えばジャニーズ系のお育ちも顔つきも良い青年が声をかけてきた。
「こちらがパンフレットとアンケートになります」
と渡してくれた。
そのとき田舎から出てきたばかりで、18歳だった私はクラシックのピアノ演奏会場にサッカー練習後のジャージ姿で、スポーツバッグをしょって歩いていた。
一瞬その美しい青年に見惚れたが、所詮この人と、なんてあり得ない恋だろうと思い、すぐコンサートホールに入った。
運命とは面白いもので、そのとき出会った彼が、その後6年間、私が大学を卒業して社会人になるまで、彼氏として、先輩として、ショパンをはじめとする音楽の世界を教えてくれた、(Hまで教えてくれた)裕也さんであった
知り合ってから5カ月くらいはお互い、そうであること(男が好きであること)を隠していたが、やがて11月のある晩、ひょんなきっかけで私のアパートに遊びに来ることになった裕也に、私は我慢できなくて、思わず告白してしまった
「先輩、ずっと言おうと思っていたんですけど、オレ、先輩のことが好きなんです」
「オレが男で、先輩も男だってこと、知ってます、それでもいいんです、ただ、いつも一緒に居たいんです」
このあまりにもあっけらかんとした告白に、先輩の裕也は言葉を失った様子だった。
(心のなかでは、ここまで仲良くなれたのだから、恋人になれなくとも後悔はない、良い友達ではいてくれるだろう、という思いはあった)
”わかってもらえなくてもいい、気持ちを伝えずに終わるよりましだ”
そう思って覚悟した上での、告白だった。
そのとき私は18歳で大学1年生、裕也さんは21歳で3年生だった。彼はピアノサークルの副部長をやっていた。
ある晩、彼の自宅で愛好会の部員を集めたパーティーがあった。
私は彼の自宅に招かれ、家族に紹介されたあと、彼の寝室で朝方まで話した。そして彼からも告白された。
「実は、○○区民センターでお前を初めて見たときからお前が好きだった」
「いつか告白しようと思っていたが、まさかお前から告白されるとは思ってもいなかった」
「正直に言うよ、オレもお前が好きだ!」
そのとき私は天に昇るような気持ちになった。
続けて裕也は
「ベッドはひとつしかないから、ここで一緒に寝ることになるけどいいかな?」
と言われたので
「はっ、はい」
その後のことは読者の想像に任せるが、初めて触れる男性の身体、なめらかなお尻、やわらかい唇
当時の私はもう無我夢中で
「先輩に、こんなことしてもいいの?」
と何度も聞きながら、行為を重ねていたような気がした。
あとになって分かったことだが、先輩はオレのことを想って毎日オ○ニーをしていたそうだ。それを聴くと顔が赤くなった。
この先輩、裕也との恋は私が大学を卒業して24歳になるまで続いた
彼のおかげで私の東京での大学生活は一気にバラ色となり、寂しいはずだったひとりぼっちの青春に花を添えてくれた
裕也の卒業間近の、ある冬の日
「卒業記念に、お前と一緒にヨーロッパに行きたい」
と言いだした。オレは嬉しかったが、有り得ない話だと思い、すぐ断った。
「海外には興味ないし、そもそもヨーロッパだなんて、お金がない」
裕也は引き下がらなかった
「お前をロンドンのロイヤルフェスティバルホールに連れて行き、オーケストラを聴かせ、パリのオペラ座では、オペラを見せてやりたい」
と言い張った
「裕ちゃん、うそでしょ。そんなことできるの?」
裕也は
「僕ができると言ったらできるんだ」
と引き下がらなかった
私はその週末早速、茨城にもどり、その晩父にヨーロッパ旅行のことを切り出したら、「教員になるなら広い視野が必要だろうな」とあっさり承諾してくれ
「卒業したら教員になるんだぞ」という約束で
翌朝、父はまだ寝ている私の枕元に、100万円を札束をさっと置いて出かけていった。
裕也と私の願いは叶った。
ヨーロッパの10カ国くらいを回りながら、昼間は観光地を回り、夜はコンサートホールで音楽を聴き、ホテルに戻ると裕也と愛のセレナーデを交わした
今思えば、19歳のゲイとしてはかなり幸せな旅であった。
ある時、パリ市内の観光をしているとき、ガイドさんが
「後ろに見える病院がショパンの亡くなった病院です」
と説明した
「ショパンの心臓だけは故郷のポーランドに戻されたんですよね?」
と私が口をはさむとガイドさんに
「あなたショパンのこと、知ってるんですか?」
と言われた。
サッカー愛好会あがりの日焼けした田舎青年の顔に、ショパンはまるで似合わなかったのであろう。

8.大学のピアノ愛好会に誘われる

自然と言えば自然の成り行きだが、裕也の誘いもあって、ピアノ愛好会の練習風景を見に行くことにした。
さすがに全国各地から東京の大学めざして入ってきた連中がピアノを弾いている。なかなかの光景だった。
そのときたまたま当時の会長さんが
「君がうわさの、そして副会長がお気に入りのひでき君だね」
そしてピアノを指さして
「良かったら触ってみてくれ」
その時、すでにショパンだけでもかなりレパートリーを持っていたが、いつものように周囲のお育ちの良い女性たちは、
”何、あの泥臭い男の子?”
”ピアノなんて、触ったこともないんじゃないの?”
という顔で私を見ていた。
私は構わず、どかんとピアノの前に座り、いきなりショパンの即興曲やポロネーズを弾き始めた。
ポロネーズ6番の最後である「ダダダダ、ダッダ」を弾き終えたとき、会長が私の前にやってきて
「お願いだから入部してくれませんか?」
と握手を求めてきた。
私は田舎者の私を見下すような女性たちのほうを向いて
「会長さんがそこまで言うなら」
ともったいぶった表情で入部を快諾した。
というか、当時もいまも、ピアノは金持ちの子息の習う者、女の子の習い事、みたいなイメージがあるが
実際問題、有名なシェフも、料理人も、パティシエも、デザイナーも、男が幅を利かせている世界ではないか
どうして筋骨隆々逞しい男子が弾いてはいけないのだ
あの全身全霊、肉体で挑まなければならないピアノという楽器
どう考えても、か弱いお嬢さんのものではない、
ピアニストこそ大いなる肉体労働者のものなのだ
と思っていた
音楽というのは人を感動させるためにある
さらに
ピアノというのは自分の弾く曲を聴いて感動してくれる人のために弾くもののだ
そう信じていた
あるときは切なく、あるときは反響板を吹き飛ばすほど力強いピアニストになりたい
と思っていた
2年後、大学3年になったときに、もっとも聴衆を惹きつけられる曲を弾ける人間が会長になる、という慣例に従って
私はこのサークルの長にならざるを得なくなった。
私の大学は東大ピアノの会や早稲田ショパンの会の人たちと交流していたので、さらに人間関係は深まっていった。お互いの発表会を見に行ったり、身に来てもらって交流を深めた。

9.タイ移住15年後、ショパンの祖国ポーランドへ

それからどのくらいの歳月が経ったことだろう、大学も卒業し、裕也とも別れ、サークルで知り合った東大や早稲田の人たちとも疎遠になり、社会人になり、ほとんどピアノに触れることはなくなってしまった
その後、ピアノとはすっかり離れた人生になってしまった。
29歳のとき、北米での生活に疲れ、日本に戻ってきた。それから12年間、東京のアメリカンスクールでの仕事が軌道に乗ってきたにも関わらず、私はこのまま日本にいても仕方がない、と思い始めていた。
日本だと楽に生活はできると思ったが、日本という枠組みの中では、セクシャリティだけでなく、精神的には自由になれないし、自己実現や思い切ったこともできない、と思ったことも事実だ。
40歳になった記念に日本での生活を精算し、世界放浪の旅に出た、その1年後、東南アジアのタイに落ち着いた。
その後のことは別の機会に話したいが、パタヤーに来て10年、やっと人並の生活ができるようになった。何しろタイに来てからの数年、日本一時帰国どころかバンコクへ行くお金さえなかったのだから。
パタヤーで会社設立15年を記念してではないが、せめてものご褒美に連れ添って27年になるケンを連れてポーランドに行くことにした。2019年のことである。

10.首都ワルシャワとショパン博物館

ワルシャワ市内にあるショパン博物館
入口で記念撮影する筆者
私は昔っからひねくれもので、人と同じことはしなくない性格だった。
そんな感じだったから、いわゆるみんなが良い良いという国や観光地にはまるで興味がなかった。
裕也には悪いと思ったが、ふたりでまわったヨーロッパのうち、面白いなと思ったのは、ギリシャとスペインだけだった。
さてその後、30年以上の歳月が流れ、裕也とも別れ、新しいパートナーとなったケンとも27年のつきあいになり、気が付けば東南アジアのタイ・パタヤーで、商売を始めており、すでに15年が経過していた。
私たちが久しぶりのヨーロッパで選んだのは、フィンランドとポーランドであった。
実は前年にフィンランドとスペインに行っていたが、すでにヘルシンキもマドリードも中国人観光客で溢れかえっており、ヨーロッパの有名都市はどこも魅力的には見えなかった。
そんななか遠い学生時代の夢を追い掛けるがごとく、ポーランドを選んだのだった。
ポーランドという国やワルシャワという街は初めて訪れたので新鮮味に溢れていたが、ショパン博物館については、すでに彼の作品は心と体に染みついていたので、【心のふるさとに戻ったような懐かしさ】に胸が締め付けられた。
通りの名前にもなっている
遠くに見えるのはショパン像
大学時代のサークルでのこと
初めて経験した男性との身体的接触
妬みや嫉妬の感情
同級生への片思いなど
いろいろなことがショパンの曲とともに思い出され、私はショパンのデスマスクを見たとき、しばらくそこを動けなくなった。
ショパンのデスマスク
ショパンの手
ガイドのマリアさんが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。
マリアさん

(マリアさんはワルシャワ大学の卒業生だった。現在ポーランドでは高学歴でも良い給料がもらえず、イギリス、フランス、ドイツなどへ出稼ぎに行っている人間が圧倒的に多いらしい)

この博物館がほかの博物館と違うのは、展示を終えたあと、ショパンファンのために、自由に音楽を聞かせてくれるフロアがあったことだった。

ショパンが18歳まで住んだ住居(現在はワルシャワ大学にある)

ここで私はマリアさんから1時間ほど時間をもらい、小学生のときからの思い出にずっと浸った。柏でのできごと、小学校や中学校でのできごと、大学時代のピアノサークルのこと、初めての恋人など。それらの思い出がショパンの曲とともに走馬灯のようによみがえった。

別れの曲(エチュード作品10-3)の楽譜
ショパンの使っていたピアノ

マリアさんが迎えに来てくれたときは、すっかり思い出の箱を閉じ、また新しい挑戦をしようと決意していた。

入口のところでケンが待っていてくれた。

ケンが近所におしゃれなカフェとケーキ屋さんがあるからそこでケーキを買って帰りたいと言いだした。

私の男遍歴は大したものではないがこうしていつも誰かが自分のそばにいてくれて支えてくれたことに感謝している。

1849年10月17日、フレデリック・フランソワ・ショパンは39歳の若さでこの世を去ったが、彼の残した音楽はピアノを愛する人々の間で永遠に生き続けるだろう。

ショパンは死んだが、残した音楽は永遠である

ポーランドの首都ワルシャワについてはブログのこちらの部分

をご覧ください。

最後にみなさんにお願いがあります。

ポーランドのショパンゆかりの地を訪ねる映像とともに、エチュード作品10-3「別れの曲」をお聞きください。

長きにわたりおつきあいくださり誠にありがとうございました。