ゲイおやじのショパンへの思い(後編)

ゲイおやじのショパンへの思い(前編)

に続いて【後編】を書きました。

6.水谷豊「赤い激流」の影響を受けた日々
7.初めての恋人とヨーロッパ旅行
8.大学のピアノ愛好会に誘われる
9.タイ移住15年後、ショパンの祖国ポーランドへ
10.首都ワルシャワとショパン博物館


6.水谷豊「赤い激流」の影響を受けた日々

当時の二人はとても若く精悍であった

当時、巷ではドラマ「赤いシリーズ」が流行っていた。

『赤いシリーズ』とは、TBSが大映テレビと共同で1974年から1980年にかけて製作・放送した作品群のシリーズ名である。テレビドラマ9作品とテレビスペシャル1作品の計10作品であり、いずれの作品もタイトルが「赤い」から始まっている。

 

 

山口百恵宇津井健がシリーズのメインであったが、このドラマではなぜか、水谷豊竹下景子がメインであった。(彼らのほかには宇津井健、松尾嘉代、緒形拳、小沢栄太郎、石立鉄男などが出演していた、山口百恵はパリ音楽院に留学中という設定で、岸恵子はパリ音楽院の先生、というあり得ない設定だった)
このドラマに登場する第46回毎朝音楽コンクールでのピアノ課題曲の1曲目がフレデリック・ショパンの「英雄ポロネーズ」(ポロネーズ6番)(ポーランド生まれのピアニスト・ブレハッチが弾いている)であった。
この音楽コンクールを最後まで勝ち抜いた人間だけが、日本代表としてポーランドのワルシャワで4年に1度行われる【ショパンコンクール】に参加できるという設定であった。
ドラマ中で水谷豊がショパンの英雄ポロネーズを弾くシーン
(28:00頃)
さてこういったものに憧れ、熱くなり、やればできる、と思いこんでしまう性格の私は、飯田先生に内緒で、このポロネーズの6番(英雄ポロネーズ)をマスターしてしまったのだ。
その後クラスメイトたちは音楽の時間になると、先生が来る前に私に「赤い激流」つまりポロネーズの6番を弾いてくれとせがむようになった。
級友たちに生でショパンを弾いてやり、彼らにクラシックの醍醐味を教えてしまった私であったが、そのうわさは先生にも伝わってしまい、とうとう担任の竹下先生の知るところとなった。
ある日、竹下先生はHR(ホームルーム)の時間にこういった
「みんな聞いてくれ、オレはこのたび、テニス部に所属していて、コーラス部にもいる、そして学級委員長にして、生徒会役員の天才ひできに、ホームルームの1時間をあげようと思う。
これからみんなで音楽室へ行って、ひできのピアノリサイタルを聴こうではないか」
とても恥ずかしかったが、とてもうれしかった
竹下先生は生徒をおだてるのは得意だったが、先生自身もドラマで流れている赤い激流(ショパンのポロネーズ)を聴きたかったのだ。
先生がクラスのみんなにプレゼントした時間は、私がみんなのリクエストに答えるというコンサートの時間となってしまった。

7.初めての恋人とヨーロッパ旅行

パリのアイフルタワー
大学に入ってからは特にやりたいと思えることがなかったが、ずっと前から好きだったサッカーをやってみたいと思っていたので、取り敢えずサッカー愛好会に入部した。
しかし、たまたまサッカーの帰りに大学構内でピアノ演奏会のチラシを見かけたのは、入学してから2か月後のことであった。
「○○区民センター、○○大学ピアノ愛好会発表会、入場無料」とあった。
そこで何か不思議な縁を感じ、とりあえず行ってみることにした。
受付には演奏会用に着飾った女子学生たちとキリっとスーツを来た育ちの良い男の子たち(学生)がいた。のちに愛好会の先輩になる人たちであった。
受付に座っていたいかにもお坊ちゃまという顔立ちの、今で言えばジャニーズ系のお育ちも顔つきも良い青年が声をかけてきた。
「こちらがパンフレットとアンケートになります」
と渡してくれた。
そのとき田舎から出てきたばかりで、18歳だった私はクラシックのピアノ演奏会場にサッカー練習後のジャージ姿で、スポーツバッグをしょって歩いていた。
一瞬その美しい青年に見惚れたが、所詮この人と、なんてあり得ない恋だろうと思い、すぐコンサートホールに入った。
運命とは面白いもので、そのとき出会った彼が、その後6年間、私が大学を卒業して社会人になるまで、彼氏として、先輩として、ショパンをはじめとする音楽の世界を教えてくれた、(Hまで教えてくれた)裕也さんであった
知り合ってから5カ月くらいはお互い、そうであること(男が好きであること)を隠していたが、やがて11月のある晩、ひょんなきっかけで私のアパートに遊びに来ることになった裕也に、私は我慢できなくて、思わず告白してしまった
「先輩、ずっと言おうと思っていたんですけど、オレ、先輩のことが好きなんです」
「オレが男で、先輩も男だってこと、知ってます、それでもいいんです、ただ、いつも一緒に居たいんです」
このあまりにもあっけらかんとした告白に、先輩の裕也は言葉を失った様子だった。
(心のなかでは、ここまで仲良くなれたのだから、恋人になれなくとも後悔はない、良い友達ではいてくれるだろう、という思いはあった)
”わかってもらえなくてもいい、気持ちを伝えずに終わるよりましだ”
そう思って覚悟した上での、告白だった。
そのとき私は18歳で大学1年生、裕也さんは21歳で3年生だった。彼はピアノサークルの副部長をやっていた。
ある晩、彼の自宅で愛好会の部員を集めたパーティーがあった。
私は彼の自宅に招かれ、家族に紹介されたあと、彼の寝室で朝方まで話した。そして彼からも告白された。
「実は、○○区民センターでお前を初めて見たときからお前が好きだった」
「いつか告白しようと思っていたが、まさかお前から告白されるとは思ってもいなかった」
「正直に言うよ、オレもお前が好きだ!」
そのとき私は天に昇るような気持ちになった。
続けて裕也は
「ベッドはひとつしかないから、ここで一緒に寝ることになるけどいいかな?」
と言われたので
「はっ、はい」
その後のことは読者の想像に任せるが、初めて触れる男性の身体、なめらかなお尻、やわらかい唇
当時の私はもう無我夢中で
「先輩に、こんなことしてもいいの?」
と何度も聞きながら、行為を重ねていたような気がした。
あとになって分かったことだが、先輩はオレのことを想って毎日オ○ニーをしていたそうだ。それを聴くと顔が赤くなった。
この先輩、裕也との恋は私が大学を卒業して24歳になるまで続いた
彼のおかげで私の東京での大学生活は一気にバラ色となり、寂しいはずだったひとりぼっちの青春に花を添えてくれた
裕也の卒業間近の、ある冬の日
「卒業記念に、お前と一緒にヨーロッパに行きたい」
と言いだした。オレは嬉しかったが、有り得ない話だと思い、すぐ断った。
「海外には興味ないし、そもそもヨーロッパだなんて、お金がない」
裕也は引き下がらなかった
「お前をロンドンのロイヤルフェスティバルホールに連れて行き、オーケストラを聴かせ、パリのオペラ座では、オペラを見せてやりたい」
と言い張った
「裕ちゃん、うそでしょ。そんなことできるの?」
裕也は
「僕ができると言ったらできるんだ」
と引き下がらなかった
私はその週末早速、茨城にもどり、その晩父にヨーロッパ旅行のことを切り出したら、「教員になるなら広い視野が必要だろうな」とあっさり承諾してくれ
「卒業したら教員になるんだぞ」という約束で
翌朝、父はまだ寝ている私の枕元に、100万円を札束をさっと置いて出かけていった。
裕也と私の願いは叶った。
ヨーロッパの10カ国くらいを回りながら、昼間は観光地を回り、夜はコンサートホールで音楽を聴き、ホテルに戻ると裕也と愛のセレナーデを交わした
今思えば、19歳のゲイとしてはかなり幸せな旅であった。
ある時、パリ市内の観光をしているとき、ガイドさんが
「後ろに見える病院がショパンの亡くなった病院です」
と説明した
「ショパンの心臓だけは故郷のポーランドに戻されたんですよね?」
と私が口をはさむとガイドさんに
「あなたショパンのこと、知ってるんですか?」
と言われた。
サッカー愛好会あがりの日焼けした田舎青年の顔に、ショパンはまるで似合わなかったのであろう。

8.大学のピアノ愛好会に誘われる

自然と言えば自然の成り行きだが、裕也の誘いもあって、ピアノ愛好会の練習風景を見に行くことにした。
さすがに全国各地から東京の大学めざして入ってきた連中がピアノを弾いている。なかなかの光景だった。
そのときたまたま当時の会長さんが
「君がうわさの、そして副会長がお気に入りのひでき君だね」
そしてピアノを指さして
「良かったら触ってみてくれ」
その時、すでにショパンだけでもかなりレパートリーを持っていたが、いつものように周囲のお育ちの良い女性たちは、
”何、あの泥臭い男の子?”
”ピアノなんて、触ったこともないんじゃないの?”
という顔で私を見ていた。
私は構わず、どかんとピアノの前に座り、いきなりショパンの即興曲やポロネーズを弾き始めた。
ポロネーズ6番の最後である「ダダダダ、ダッダ」を弾き終えたとき、会長が私の前にやってきて
「お願いだから入部してくれませんか?」
と握手を求めてきた。
私は田舎者の私を見下すような女性たちのほうを向いて
「会長さんがそこまで言うなら」
ともったいぶった表情で入部を快諾した。
というか、当時もいまも、ピアノは金持ちの子息の習う者、女の子の習い事、みたいなイメージがあるが
実際問題、有名なシェフも、料理人も、パティシエも、デザイナーも、男が幅を利かせている世界ではないか
どうして筋骨隆々逞しい男子が弾いてはいけないのだ
あの全身全霊、肉体で挑まなければならないピアノという楽器
どう考えても、か弱いお嬢さんのものではない、
ピアニストこそ大いなる肉体労働者のものなのだ
と思っていた
音楽というのは人を感動させるためにある
さらに
ピアノというのは自分の弾く曲を聴いて感動してくれる人のために弾くもののだ
そう信じていた
あるときは切なく、あるときは反響板を吹き飛ばすほど力強いピアニストになりたい
と思っていた
2年後、大学3年になったときに、もっとも聴衆を惹きつけられる曲を弾ける人間が会長になる、という慣例に従って
私はこのサークルの長にならざるを得なくなった。
私の大学は東大ピアノの会や早稲田ショパンの会の人たちと交流していたので、さらに人間関係は深まっていった。お互いの発表会を見に行ったり、身に来てもらって交流を深めた。

9.タイ移住15年後、ショパンの祖国ポーランドへ

それからどのくらいの歳月が経ったことだろう、大学も卒業し、裕也とも別れ、サークルで知り合った東大や早稲田の人たちとも疎遠になり、社会人になり、ほとんどピアノに触れることはなくなってしまった
その後、ピアノとはすっかり離れた人生になってしまった。
29歳のとき、北米での生活に疲れ、日本に戻ってきた。それから12年間、東京のアメリカンスクールでの仕事が軌道に乗ってきたにも関わらず、私はこのまま日本にいても仕方がない、と思い始めていた。
日本だと楽に生活はできると思ったが、日本という枠組みの中では、セクシャリティだけでなく、精神的には自由になれないし、自己実現や思い切ったこともできない、と思ったことも事実だ。
40歳になった記念に日本での生活を精算し、世界放浪の旅に出た、その1年後、東南アジアのタイに落ち着いた。
その後のことは別の機会に話したいが、パタヤーに来て10年、やっと人並の生活ができるようになった。何しろタイに来てからの数年、日本一時帰国どころかバンコクへ行くお金さえなかったのだから。
パタヤーで会社設立15年を記念してではないが、せめてものご褒美に連れ添って27年になるケンを連れてポーランドに行くことにした。2019年のことである。

10.首都ワルシャワとショパン博物館

ワルシャワ市内にあるショパン博物館
入口で記念撮影する筆者
私は昔っからひねくれもので、人と同じことはしなくない性格だった。
そんな感じだったから、いわゆるみんなが良い良いという国や観光地にはまるで興味がなかった。
裕也には悪いと思ったが、ふたりでまわったヨーロッパのうち、面白いなと思ったのは、ギリシャとスペインだけだった。
さてその後、30年以上の歳月が流れ、裕也とも別れ、新しいパートナーとなったケンとも27年のつきあいになり、気が付けば東南アジアのタイ・パタヤーで、商売を始めており、すでに15年が経過していた。
私たちが久しぶりのヨーロッパで選んだのは、フィンランドとポーランドであった。
実は前年にフィンランドとスペインに行っていたが、すでにヘルシンキもマドリードも中国人観光客で溢れかえっており、ヨーロッパの有名都市はどこも魅力的には見えなかった。
そんななか遠い学生時代の夢を追い掛けるがごとく、ポーランドを選んだのだった。
ポーランドという国やワルシャワという街は初めて訪れたので新鮮味に溢れていたが、ショパン博物館については、すでに彼の作品は心と体に染みついていたので、【心のふるさとに戻ったような懐かしさ】に胸が締め付けられた。
通りの名前にもなっている
遠くに見えるのはショパン像
大学時代のサークルでのこと
初めて経験した男性との身体的接触
妬みや嫉妬の感情
同級生への片思いなど
いろいろなことがショパンの曲とともに思い出され、私はショパンのデスマスクを見たとき、しばらくそこを動けなくなった。
ショパンのデスマスク
ショパンの手
ガイドのマリアさんが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。
マリアさん

(マリアさんはワルシャワ大学の卒業生だった。現在ポーランドでは高学歴でも良い給料がもらえず、イギリス、フランス、ドイツなどへ出稼ぎに行っている人間が圧倒的に多いらしい)

この博物館がほかの博物館と違うのは、展示を終えたあと、ショパンファンのために、自由に音楽を聞かせてくれるフロアがあったことだった。

ショパンが18歳まで住んだ住居(現在はワルシャワ大学にある)

ここで私はマリアさんから1時間ほど時間をもらい、小学生のときからの思い出にずっと浸った。柏でのできごと、小学校や中学校でのできごと、大学時代のピアノサークルのこと、初めての恋人など。それらの思い出がショパンの曲とともに走馬灯のようによみがえった。

別れの曲(エチュード作品10-3)の楽譜
ショパンの使っていたピアノ

マリアさんが迎えに来てくれたときは、すっかり思い出の箱を閉じ、また新しい挑戦をしようと決意していた。

入口のところでケンが待っていてくれた。

ケンが近所におしゃれなカフェとケーキ屋さんがあるからそこでケーキを買って帰りたいと言いだした。

私の男遍歴は大したものではないがこうしていつも誰かが自分のそばにいてくれて支えてくれたことに感謝している。

1849年10月17日、フレデリック・フランソワ・ショパンは39歳の若さでこの世を去ったが、彼の残した音楽はピアノを愛する人々の間で永遠に生き続けるだろう。

ショパンは死んだが、残した音楽は永遠である

ポーランドの首都ワルシャワについてはブログのこちらの部分

をご覧ください。

最後にみなさんにお願いがあります。

ポーランドのショパンゆかりの地を訪ねる映像とともに、エチュード作品10-3「別れの曲」をお聞きください。

長きにわたりおつきあいくださり誠にありがとうございました。

 

ゲイおやじのショパンへの思い(前編)

やっと 好きになっちゃったポーランドその3(ショパンへの思い)について書くことが出来た。

今年(2020年)はショパン生誕210年となる記念すべき年なので、今回は特にショパンについて書きたいと思う。

かなり長いので興味のない人は飛ばし読みしてください。
1.ショパンとは誰か?
2.ショパンとの出会い
3.ピアノが自宅に運ばれるまで
4.つかさ先生との出会い
5.父との約束


1.ショパンとは誰か?

知らない人はいないと思うが・・・。

たいてい日本の学校では音楽の時間に作曲家のひとりとして紹介されている。おなじみバッハやベートーヴェンと同じくらい知名度は思うが、万一、ショパンを知らない人のために、ショパンとはいったい誰なのか、記しておこう。

ワルシャワのショパン博物館にある肖像画

フレデリック・フランソワ・ショパン(フランス語表記Frédéric François Chopin)は1810年ポーランド生まれのピアニスト、作曲家である。

(ポーランド人なのになぜフランス語表記なのかと言えば、彼は主にフランスで活動したピアニスト兼作曲家からである)

ショパンの作品は、ほとんどがピアノ独奏曲であり、その美しく叙情的な旋律や半音階和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、世界的にピアノの詩人と呼ばれるようになった。

今日、日本その他の国におけるピアノ演奏会では必ずといってほど取り上げられる作曲家であり、クラシックファン以外にもよく知られている。


2.ショパンとの出会い

私(ひでき)がショパンの曲を生で聞いたのは実家(茨城県南部)からさほど遠くない千葉県柏市のそごう柏店の開店日であった。そのオープニングセレモニーであったと記憶している。(小学5、6年生であったと思う)

 

そのとき電子ピアノの宣伝で、関係者がデモ演奏をしていたと思う。ピアノの前にはドレスを着たエレガントな女性が、ノクターンの作品9-2(夜想曲第2番)を弾いていた。

そのときは、自分の心臓がこれまでにないほど高鳴り、なんて切ない曲だろう、この世にこんな美しい曲があるなんて、というまるで天に昇るような気持ちになったことを覚えている。

 

その日は、田舎の友人数名と、この「そごう柏店」の開店セールに来ていたはずだったが、友人たちのことはすっかり忘れ、その演奏にずっと聞き入っていた。

演奏が終わるとただにち、この女性のところに寄っていき、

「あのぅ↑、すんません、このきょぐ(曲)、なんつう名前ですかぁ?↑」と尋ねた

(その当時の私は、かなり茨城なまりが強かったようで、東京の先輩に出会うまで、かなりの上向きイントネーションを使っていたように思う)

女性は、落ち着いた声で

「ショパンのノクターンよ」

と答えてくれた。

その当時は美しい都会の女性に話しかけるなど田舎の少年にとって心臓が飛び出るほどの勇気だったが、この曲の美しさはそんな緊張を飛び越えてしまうほどのものだった。(当時の柏駅前はビルが林立して、茨城県人にはえらく都会に見えたのだ)

だが、この曲は私にとって、記念すべきショパンとの出会いの曲になったのである。

 

 

3.ピアノが自宅に運ばれるまで

河合の最高峰グランドピアノEX(売価19,000,000円)

それ以来、狂ったようにピアノ曲に魅せられた私は、寝ても覚めてもピアノ曲を聴きたい、弾きたいと思うようになり、楽器店でショパンの曲を探しては買い、家で聞いていた。

実家にはいわゆるレコードプレーヤーとラジカセしかなったが、ショパンに関する曲はありとあらゆるものを聴いた。そのうちベートーヴェンやバッハ、その他の暮らしの曲も聞くようになっていった。

 

自宅には姉用のオルガンしかなかったが、朝から晩までオルガンを弾いているのは物足りない、なんとかピアノを買ってくれ、と親に頼んだが、親からの答えは断じて ”NO” であった。

「お前のように歌ひとつ歌えない人間が、ピアノなど必要ない」

冷たい父の反応であった。

でも、私は諦めなかった。本当に、心底ピアノが欲しい、と思った。

「絶対にダメだ、お前にピアノを買うつもりはない、ピアノではなく野球をやれ!」

 

私は母に知り合いや親戚にピアノを持て余している家がないか尋ねてほしい、もしそのピアノが使われていないのなら、タダで譲ってほしい、と頼んだ。

母は協力的だったが、できれば新品を買ってやりたいが、残念だがうちにはそんな余裕はない、と言われた。

それでも「どうしても欲しい、買ってくれないなら死んでやる」とまで叫んだら

母は母なりに知恵を絞ってくれ、当地の地方新聞である「いはらき新聞」に

”小学生の息子がピアノを欲しがっています、どなたか中古でよいので、安価で譲ってくださいませんか” の無料枠の読者広告を出してくれた

それは母親ができる精一杯であった。

とても、うれしかった。

だが、読者からの反応はなかった。

 

 

このままでは死ぬに死ねない、と思った私は楽器店でもらってきたピアノのカタログを家じゅうに貼り付け、玄関からトイレの入口までピアノの写真という写真を飾った。

その行為はとうとう父の怒りを買い

「お前にピアノは必要ない、お前に必要なのはバットとグローブだ、すぐにピアノの広告をはずせ、これ以上ピアノの話はするな、でないとお前をぶん殴る」

それからしばらくの間、私はピアノ買ってくれアピールは取り下げた。

その後は毎日、しょんぼりした日々が続いた。

姉は、慰めるつもりだったのか、「ピアノなんて、社会人になってから自分の金で買えばいいじゃん」と言ってくれた。

 

それでも心のなかでは、どうしようもない思いが募っていた。

ピアノに出会ってしまった以上、これからの人生、ピアノなしで生きられるはずがない!

本当に好きなものはピアノなのだ、ピアノなしの人生など考えられない!

私は本当に心からピアノが欲しいのだ!

大人になるまで待つなんてできない!

人間、どうしても欲しい!となれば、あの手この手と手段を選ばないものだ。とにかく、必死で、親にピアノを買わせる方法を考えた。

そこでひとつアイデアを思いついた。

私は当時、全国的に普及していた河合楽器(※)の茨城県内にある支店すべてに手紙を書き「僕はどうしてもピアノが欲しいんです、うちの両親を説得してください」と懇願すると、当時の河合楽器の代表者はセールスマンを伴って自宅までやってきた。

セールスマンは我が家まで来て、最初は世間話から始めて、ピアノがいかに優れた楽器であるかと述べ、お子さんの情操教育に役立つことなど、いいことづくめである、とセールストークをした。

父親は「こいつは足がでかいから甲子園に行かせるんだ、ピアノなんか買ってやるつもりはない」と食い下がったが

腕利きのセールスマンは

「わかりました。きょうは帰ります。」

と言いつつ、決して諦めず、しつこく何度も何度も我が家に足を運んだ。

「ピアノという楽器は一度買ったら、一生モノです。息子さんがおじいちゃんになるまで使えますよ(欠かさず調律すればの話)」とか

「ピアノを習うと並行して学校の成績も良くなるんですよ」とか

今となれば嘘ともとれるようなトークをしまくった。

最終的にセールスマンは

「お宅のオルガンは下取りできるものだから、下取りしてあげましょう。差額でお坊ちゃまの夢を叶えてあげてはどうですか?」とクロージングした。

父はプロの説得に負けた。

ある晩、父は私に向かって、諦めた様子でこう言った。

「お前の夢は七分八分叶いそうだ」

「今度の正月休みには取手の河合楽器へ連れてゆく、そこで好きなやつを選ぶと良い」

忘れもしない中学校1年の冬休み、河合のピアノ運送車が真っ黒なピアノを自宅に運んできた。

いまもそうだがピアノは軽くても200キロ、場合によっては300キロを超える重たい楽器で、今になって思えば、購入したあと父は、早速ピアノを入れる部屋の基礎工事をしていた。

父は内弁慶で外面ばかり気にする典型的な田舎の人間だった。

外面を気にする人間というのは、慎重で臆病なタイプの人間が多く、全く違う発想をもった外敵に対しては免疫がなく、一定の論理を持ったプロの説得には弱いということを私は直感的に知っていた。

 


4.つかさ先生との出会い

その後、本格的なピアノ先生探しが始まった。

以前から近所にはかつて学校で音楽の先生をしていて、最後は小学校か中学校の校長先生だった男の先生がいる、といううわさがあった。

私はその先生の自宅を突き止め、こんにちはも言わずに先生の家に飛び込んでいって「先生、ボクにピアノを教えてください」と頼み込んでいた。

先生は「おやおやどうしたんだい、君はどこの子?そんなに習いたいんだったら、好きにするがいい」と困った顔をしながらも承諾してくれた。

それからその先生(名前はつかさ先生)の自宅に毎週日曜日、ピアノを習うようになっていた。

 

お昼を食べたあと、先生のところに行くと、レッスンを心の底から楽しんだが、レッスンのあと聞かされるピアニストの逸話や音楽の話が、楽しくて楽しくてしょうがないので、ついつい夜まで長居してしまう感じであった。

 

 

つかさ先生は日常的には決して怒らない温厚そのものの先生だった。だが、ピアノに関しては、一定のレベルをマスターするまで、絶対に先に進ませてくれないような人であった。

「ひでき、慌てるな、ゆっくりと、でも、しっかりと」

「ひでき、一曲一曲、精魂込めて完璧に仕上げるんだ、そうすると自信がつく」

「ひでき、練習のときは本番だと思ってやれ、本番は練習のつもりでやれ」

まさかこの先生が大学を卒業する前までの10年、つきあってくれるとは思いもしなかった。

ところで、なぜYAMAHAではなくKAWAI(河合楽器製作所)かというと、当時私が通っていた中学校のピアノがすべてKAWAIだったというのと、ドラマ赤い激流に使用されていたのもKAWAIのピアノだった。

昔っから私は、今も昔も日本で最も有名なメーカーであるヤマハを選ばなかった。いつもいつも一番手ではないブランドが好きなのでであった。

いわゆるハワイとかグアムとか、とにかく有名観光地が大嫌いだった。

ヨーロッパでは日本人がほとんど行かないスペインのバレアレス諸島やイタリアのサルディーニャ島などに好んで通ったのも、いわゆるメジャー(第一義的)な観光地が大嫌いだったからなのだ。

従って、タイと言えばもっとも有名なバンコクを敢えて素通し、当時、衰退がうわさされていたパタヤーに行こうと思ったのは、生来のこのひねくれた考え方による、と思っている。

私は自分にチョイスがある場合、世間の人が一番だ、というものをあまり信じないようにしている。

自分はどちらかというと、二番手で頑張っているようなヤツらを応援したいと常に思ってきたのだ。

オレは一番(TOYOTA)が嫌い、二番以降(日産)が好き

みたいなものだ!

 

5.父との約束

実はピアノを買うという約束の裏には、父親とのひとつの約束があった。

「もし、ピアノをやることによって少しでも成績が落ちたならピアノは売り飛ばす、そして先生のところに行くのも辞めてもらう」

私は必死で、ピアノとテニス部とコーラス部と学校の勉強を両立させた。

河合のセールスマントークはその後の自分にとって現実のものとなった。我が家にピアノが運ばれてきて以来、私の気持ちは一気に明るくなり、勉強と勉強の合間にピアノが弾けるのは何より休憩であり励みになった。

近所の人たちは激しく鳴り響く|ピアノの音に寛大で文句を言う人はひとりもいなかった。そのうち何人かはそのピアノという代物を一度でいいから見せてほしい、できれば中がどうなっているか見たい、という人もいた。

ことあるごとにあの少年がピアノを弾ける、ということが話題となり、学校行事と言えばピアノを弾かされ、親戚が集まれば弾いてくれ頼まれ、最終的には県庁所在地の水戸で行われる県芸術祭まで引っ張り出されることになった。

並行して学校勉強もおろそかにしなかった。というか父との約束でそれはできなかった。

これは自慢ではないが、中学2年ときに体育を除いてオール5の成績となり、学級委員長となり、生徒会役員にもなった。

体は昔っから健康ではあったが、小学校に続いて中学校も1日たりとも欠席したことがなかったので、最終的には中学卒業式のときに学問と健康で最も優秀な生徒だけに送られる最優秀努力賞を受けることになった。

当初はあまりピアノ購入に乗り気でなかった父もさすがに、私が学校でそれなりの褒賞をもらい、それなりの成績を収めてくるようになると、まあ仕方ないと諦めたのか、その後は何も言うことはなくなった。

長くなったので、今回はここまでとさせていただきたいと思います。

引き続き次号にて
【好きになっちゃったポーランドその5(ゲイおやじのショパンへの思い(後編))】をご覧いただければ幸いです。
(現在執筆中)