ゲイおやじのショパンへの思い(前編)

やっと 好きになっちゃったポーランドその3(ショパンへの思い)について書くことが出来た。

今年(2020年)はショパン生誕210年となる記念すべき年なので、今回は特にショパンについて書きたいと思う。

かなり長いので興味のない人は飛ばし読みしてください。
1.ショパンとは誰か?
2.ショパンとの出会い
3.ピアノが自宅に運ばれるまで
4.つかさ先生との出会い
5.父との約束


1.ショパンとは誰か?

知らない人はいないと思うが・・・。

たいてい日本の学校では音楽の時間に作曲家のひとりとして紹介されている。おなじみバッハやベートーヴェンと同じくらい知名度は思うが、万一、ショパンを知らない人のために、ショパンとはいったい誰なのか、記しておこう。

ワルシャワのショパン博物館にある肖像画

フレデリック・フランソワ・ショパン(フランス語表記Frédéric François Chopin)は1810年ポーランド生まれのピアニスト、作曲家である。

(ポーランド人なのになぜフランス語表記なのかと言えば、彼は主にフランスで活動したピアニスト兼作曲家からである)

ショパンの作品は、ほとんどがピアノ独奏曲であり、その美しく叙情的な旋律や半音階和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、世界的にピアノの詩人と呼ばれるようになった。

今日、日本その他の国におけるピアノ演奏会では必ずといってほど取り上げられる作曲家であり、クラシックファン以外にもよく知られている。


2.ショパンとの出会い

私(ひでき)がショパンの曲を生で聞いたのは実家(茨城県南部)からさほど遠くない千葉県柏市のそごう柏店の開店日であった。そのオープニングセレモニーであったと記憶している。(小学5、6年生であったと思う)

 

そのとき電子ピアノの宣伝で、関係者がデモ演奏をしていたと思う。ピアノの前にはドレスを着たエレガントな女性が、ノクターンの作品9-2(夜想曲第2番)を弾いていた。

そのときは、自分の心臓がこれまでにないほど高鳴り、なんて切ない曲だろう、この世にこんな美しい曲があるなんて、というまるで天に昇るような気持ちになったことを覚えている。

 

その日は、田舎の友人数名と、この「そごう柏店」の開店セールに来ていたはずだったが、友人たちのことはすっかり忘れ、その演奏にずっと聞き入っていた。

演奏が終わるとただにち、この女性のところに寄っていき、

「あのぅ↑、すんません、このきょぐ(曲)、なんつう名前ですかぁ?↑」と尋ねた

(その当時の私は、かなり茨城なまりが強かったようで、東京の先輩に出会うまで、かなりの上向きイントネーションを使っていたように思う)

女性は、落ち着いた声で

「ショパンのノクターンよ」

と答えてくれた。

その当時は美しい都会の女性に話しかけるなど田舎の少年にとって心臓が飛び出るほどの勇気だったが、この曲の美しさはそんな緊張を飛び越えてしまうほどのものだった。(当時の柏駅前はビルが林立して、茨城県人にはえらく都会に見えたのだ)

だが、この曲は私にとって、記念すべきショパンとの出会いの曲になったのである。

 

 

3.ピアノが自宅に運ばれるまで

河合の最高峰グランドピアノEX(売価19,000,000円)

それ以来、狂ったようにピアノ曲に魅せられた私は、寝ても覚めてもピアノ曲を聴きたい、弾きたいと思うようになり、楽器店でショパンの曲を探しては買い、家で聞いていた。

実家にはいわゆるレコードプレーヤーとラジカセしかなったが、ショパンに関する曲はありとあらゆるものを聴いた。そのうちベートーヴェンやバッハ、その他の暮らしの曲も聞くようになっていった。

 

自宅には姉用のオルガンしかなかったが、朝から晩までオルガンを弾いているのは物足りない、なんとかピアノを買ってくれ、と親に頼んだが、親からの答えは断じて ”NO” であった。

「お前のように歌ひとつ歌えない人間が、ピアノなど必要ない」

冷たい父の反応であった。

でも、私は諦めなかった。本当に、心底ピアノが欲しい、と思った。

「絶対にダメだ、お前にピアノを買うつもりはない、ピアノではなく野球をやれ!」

 

私は母に知り合いや親戚にピアノを持て余している家がないか尋ねてほしい、もしそのピアノが使われていないのなら、タダで譲ってほしい、と頼んだ。

母は協力的だったが、できれば新品を買ってやりたいが、残念だがうちにはそんな余裕はない、と言われた。

それでも「どうしても欲しい、買ってくれないなら死んでやる」とまで叫んだら

母は母なりに知恵を絞ってくれ、当地の地方新聞である「いはらき新聞」に

”小学生の息子がピアノを欲しがっています、どなたか中古でよいので、安価で譲ってくださいませんか” の無料枠の読者広告を出してくれた

それは母親ができる精一杯であった。

とても、うれしかった。

だが、読者からの反応はなかった。

 

 

このままでは死ぬに死ねない、と思った私は楽器店でもらってきたピアノのカタログを家じゅうに貼り付け、玄関からトイレの入口までピアノの写真という写真を飾った。

その行為はとうとう父の怒りを買い

「お前にピアノは必要ない、お前に必要なのはバットとグローブだ、すぐにピアノの広告をはずせ、これ以上ピアノの話はするな、でないとお前をぶん殴る」

それからしばらくの間、私はピアノ買ってくれアピールは取り下げた。

その後は毎日、しょんぼりした日々が続いた。

姉は、慰めるつもりだったのか、「ピアノなんて、社会人になってから自分の金で買えばいいじゃん」と言ってくれた。

 

それでも心のなかでは、どうしようもない思いが募っていた。

ピアノに出会ってしまった以上、これからの人生、ピアノなしで生きられるはずがない!

本当に好きなものはピアノなのだ、ピアノなしの人生など考えられない!

私は本当に心からピアノが欲しいのだ!

大人になるまで待つなんてできない!

人間、どうしても欲しい!となれば、あの手この手と手段を選ばないものだ。とにかく、必死で、親にピアノを買わせる方法を考えた。

そこでひとつアイデアを思いついた。

私は当時、全国的に普及していた河合楽器(※)の茨城県内にある支店すべてに手紙を書き「僕はどうしてもピアノが欲しいんです、うちの両親を説得してください」と懇願すると、当時の河合楽器の代表者はセールスマンを伴って自宅までやってきた。

セールスマンは我が家まで来て、最初は世間話から始めて、ピアノがいかに優れた楽器であるかと述べ、お子さんの情操教育に役立つことなど、いいことづくめである、とセールストークをした。

父親は「こいつは足がでかいから甲子園に行かせるんだ、ピアノなんか買ってやるつもりはない」と食い下がったが

腕利きのセールスマンは

「わかりました。きょうは帰ります。」

と言いつつ、決して諦めず、しつこく何度も何度も我が家に足を運んだ。

「ピアノという楽器は一度買ったら、一生モノです。息子さんがおじいちゃんになるまで使えますよ(欠かさず調律すればの話)」とか

「ピアノを習うと並行して学校の成績も良くなるんですよ」とか

今となれば嘘ともとれるようなトークをしまくった。

最終的にセールスマンは

「お宅のオルガンは下取りできるものだから、下取りしてあげましょう。差額でお坊ちゃまの夢を叶えてあげてはどうですか?」とクロージングした。

父はプロの説得に負けた。

ある晩、父は私に向かって、諦めた様子でこう言った。

「お前の夢は七分八分叶いそうだ」

「今度の正月休みには取手の河合楽器へ連れてゆく、そこで好きなやつを選ぶと良い」

忘れもしない中学校1年の冬休み、河合のピアノ運送車が真っ黒なピアノを自宅に運んできた。

いまもそうだがピアノは軽くても200キロ、場合によっては300キロを超える重たい楽器で、今になって思えば、購入したあと父は、早速ピアノを入れる部屋の基礎工事をしていた。

父は内弁慶で外面ばかり気にする典型的な田舎の人間だった。

外面を気にする人間というのは、慎重で臆病なタイプの人間が多く、全く違う発想をもった外敵に対しては免疫がなく、一定の論理を持ったプロの説得には弱いということを私は直感的に知っていた。

 


4.つかさ先生との出会い

その後、本格的なピアノ先生探しが始まった。

以前から近所にはかつて学校で音楽の先生をしていて、最後は小学校か中学校の校長先生だった男の先生がいる、といううわさがあった。

私はその先生の自宅を突き止め、こんにちはも言わずに先生の家に飛び込んでいって「先生、ボクにピアノを教えてください」と頼み込んでいた。

先生は「おやおやどうしたんだい、君はどこの子?そんなに習いたいんだったら、好きにするがいい」と困った顔をしながらも承諾してくれた。

それからその先生(名前はつかさ先生)の自宅に毎週日曜日、ピアノを習うようになっていた。

 

お昼を食べたあと、先生のところに行くと、レッスンを心の底から楽しんだが、レッスンのあと聞かされるピアニストの逸話や音楽の話が、楽しくて楽しくてしょうがないので、ついつい夜まで長居してしまう感じであった。

 

 

つかさ先生は日常的には決して怒らない温厚そのものの先生だった。だが、ピアノに関しては、一定のレベルをマスターするまで、絶対に先に進ませてくれないような人であった。

「ひでき、慌てるな、ゆっくりと、でも、しっかりと」

「ひでき、一曲一曲、精魂込めて完璧に仕上げるんだ、そうすると自信がつく」

「ひでき、練習のときは本番だと思ってやれ、本番は練習のつもりでやれ」

まさかこの先生が大学を卒業する前までの10年、つきあってくれるとは思いもしなかった。

ところで、なぜYAMAHAではなくKAWAI(河合楽器製作所)かというと、当時私が通っていた中学校のピアノがすべてKAWAIだったというのと、ドラマ赤い激流に使用されていたのもKAWAIのピアノだった。

昔っから私は、今も昔も日本で最も有名なメーカーであるヤマハを選ばなかった。いつもいつも一番手ではないブランドが好きなのでであった。

いわゆるハワイとかグアムとか、とにかく有名観光地が大嫌いだった。

ヨーロッパでは日本人がほとんど行かないスペインのバレアレス諸島やイタリアのサルディーニャ島などに好んで通ったのも、いわゆるメジャー(第一義的)な観光地が大嫌いだったからなのだ。

従って、タイと言えばもっとも有名なバンコクを敢えて素通し、当時、衰退がうわさされていたパタヤーに行こうと思ったのは、生来のこのひねくれた考え方による、と思っている。

私は自分にチョイスがある場合、世間の人が一番だ、というものをあまり信じないようにしている。

自分はどちらかというと、二番手で頑張っているようなヤツらを応援したいと常に思ってきたのだ。

オレは一番(TOYOTA)が嫌い、二番以降(日産)が好き

みたいなものだ!

 

5.父との約束

実はピアノを買うという約束の裏には、父親とのひとつの約束があった。

「もし、ピアノをやることによって少しでも成績が落ちたならピアノは売り飛ばす、そして先生のところに行くのも辞めてもらう」

私は必死で、ピアノとテニス部とコーラス部と学校の勉強を両立させた。

河合のセールスマントークはその後の自分にとって現実のものとなった。我が家にピアノが運ばれてきて以来、私の気持ちは一気に明るくなり、勉強と勉強の合間にピアノが弾けるのは何より休憩であり励みになった。

近所の人たちは激しく鳴り響く|ピアノの音に寛大で文句を言う人はひとりもいなかった。そのうち何人かはそのピアノという代物を一度でいいから見せてほしい、できれば中がどうなっているか見たい、という人もいた。

ことあるごとにあの少年がピアノを弾ける、ということが話題となり、学校行事と言えばピアノを弾かされ、親戚が集まれば弾いてくれ頼まれ、最終的には県庁所在地の水戸で行われる県芸術祭まで引っ張り出されることになった。

並行して学校勉強もおろそかにしなかった。というか父との約束でそれはできなかった。

これは自慢ではないが、中学2年ときに体育を除いてオール5の成績となり、学級委員長となり、生徒会役員にもなった。

体は昔っから健康ではあったが、小学校に続いて中学校も1日たりとも欠席したことがなかったので、最終的には中学卒業式のときに学問と健康で最も優秀な生徒だけに送られる最優秀努力賞を受けることになった。

当初はあまりピアノ購入に乗り気でなかった父もさすがに、私が学校でそれなりの褒賞をもらい、それなりの成績を収めてくるようになると、まあ仕方ないと諦めたのか、その後は何も言うことはなくなった。

長くなったので、今回はここまでとさせていただきたいと思います。

引き続き次号にて
【好きになっちゃったポーランドその5(ゲイおやじのショパンへの思い(後編))】をご覧いただければ幸いです。
(現在執筆中)