ゲイおやじのショパンへの思い(前編)
に続いて【後編】を書きました。
6.水谷豊「赤い激流」の影響を受けた日々
7.初めての恋人とヨーロッパ旅行
8.大学のピアノ愛好会に誘われる
9.タイ移住15年後、ショパンの祖国ポーランドへ
10.首都ワルシャワとショパン博物館
6.水谷豊「赤い激流」の影響を受けた日々
当時、巷ではドラマ「赤いシリーズ」が流行っていた。
『赤いシリーズ』とは、TBSが大映テレビと共同で1974年から1980年にかけて製作・放送した作品群のシリーズ名である。テレビドラマ9作品とテレビスペシャル1作品の計10作品であり、いずれの作品もタイトルが「赤い」から始まっている。
山口百恵と宇津井健がシリーズのメインであったが、このドラマではなぜか、水谷豊と竹下景子がメインであった。(彼らのほかには宇津井健、松尾嘉代、緒形拳、小沢栄太郎、石立鉄男などが出演していた、山口百恵はパリ音楽院に留学中という設定で、岸恵子はパリ音楽院の先生、というあり得ない設定だった)
この音楽コンクールを最後まで勝ち抜いた人間だけが、日本代表としてポーランドのワルシャワで4年に1度行われる【ショパンコンクール】に参加できるという設定であった。
ドラマ中で水谷豊がショパンの英雄ポロネーズを弾く
シーン(28:00頃)
さてこういったものに憧れ、熱くなり、やればできる、と思いこんでしまう性格の私は、飯田先生に内緒で、このポロネーズの6番(英雄ポロネーズ)をマスターしてしまったのだ。
その後クラスメイトたちは音楽の時間になると、先生が来る前に私に「赤い激流」つまりポロネーズの6番を弾いてくれとせがむようになった。
級友たちに生でショパンを弾いてやり、彼らにクラシックの醍醐味を教えてしまった私であったが、そのうわさは先生にも伝わってしまい、とうとう担任の竹下先生の知るところとなった。
ある日、竹下先生はHR(ホームルーム)の時間にこういった
「みんな聞いてくれ、オレはこのたび、テニス部に所属していて、コーラス部にもいる、そして学級委員長にして、生徒会役員の天才ひできに、ホームルームの1時間をあげようと思う。
これからみんなで音楽室へ行って、ひできのピアノリサイタルを聴こうではないか」
とても恥ずかしかったが、とてもうれしかった
竹下先生は生徒をおだてるのは得意だったが、先生自身もドラマで流れている赤い激流(ショパンのポロネーズ)を聴きたかったのだ。
先生がクラスのみんなにプレゼントした時間は、私がみんなのリクエストに答えるというコンサートの時間となってしまった。
7.初めての恋人とヨーロッパ旅行
大学に入ってからは特にやりたいと思えることがなかったが、ずっと前から好きだったサッカーをやってみたいと思っていたので、取り敢えずサッカー愛好会に入部した。
しかし、たまたまサッカーの帰りに大学構内でピアノ演奏会のチラシを見かけたのは、入学してから2か月後のことであった。
「○○区民センター、○○大学ピアノ愛好会発表会、入場無料」とあった。
そこで何か不思議な縁を感じ、とりあえず行ってみることにした。
受付には演奏会用に着飾った女子学生たちとキリっとスーツを来た育ちの良い男の子たち(学生)がいた。のちに愛好会の先輩になる人たちであった。
受付に座っていたいかにもお坊ちゃまという顔立ちの、今で言えばジャニーズ系のお育ちも顔つきも良い青年が声をかけてきた。
「こちらがパンフレットとアンケートになります」
と渡してくれた。
そのとき田舎から出てきたばかりで、18歳だった私はクラシックのピアノ演奏会場にサッカー練習後のジャージ姿で、スポーツバッグをしょって歩いていた。
一瞬その美しい青年に見惚れたが、所詮この人と、なんてあり得ない恋だろうと思い、すぐコンサートホールに入った。
運命とは面白いもので、そのとき出会った彼が、その後6年間、私が大学を卒業して社会人になるまで、彼氏として、先輩として、ショパンをはじめとする音楽の世界を教えてくれた、(Hまで教えてくれた)裕也さんであった
知り合ってから5カ月くらいはお互い、そうであること(男が好きであること)を隠していたが、やがて11月のある晩、ひょんなきっかけで私のアパートに遊びに来ることになった裕也に、私は我慢できなくて、思わず告白してしまった
「先輩、ずっと言おうと思っていたんですけど、オレ、先輩のことが好きなんです」
「オレが男で、先輩も男だってこと、知ってます、それでもいいんです、ただ、いつも一緒に居たいんです」
このあまりにもあっけらかんとした告白に、先輩の裕也は言葉を失った様子だった。
(心のなかでは、ここまで仲良くなれたのだから、恋人になれなくとも後悔はない、良い友達ではいてくれるだろう、という思いはあった)
”わかってもらえなくてもいい、気持ちを伝えずに終わるよりましだ”
そう思って覚悟した上での、告白だった。
そのとき私は18歳で大学1年生、裕也さんは21歳で3年生だった。彼はピアノサークルの副部長をやっていた。
ある晩、彼の自宅で愛好会の部員を集めたパーティーがあった。
私は彼の自宅に招かれ、家族に紹介されたあと、彼の寝室で朝方まで話した。そして彼からも告白された。
「実は、○○区民センターでお前を初めて見たときからお前が好きだった」
「いつか告白しようと思っていたが、まさかお前から告白されるとは思ってもいなかった」
「正直に言うよ、オレもお前が好きだ!」
そのとき私は天に昇るような気持ちになった。
続けて裕也は
「ベッドはひとつしかないから、ここで一緒に寝ることになるけどいいかな?」
と言われたので
「はっ、はい」
その後のことは読者の想像に任せるが、初めて触れる男性の身体、なめらかなお尻、やわらかい唇
当時の私はもう無我夢中で
「先輩に、こんなことしてもいいの?」
と何度も聞きながら、行為を重ねていたような気がした。
あとになって分かったことだが、先輩はオレのことを想って毎日オ○ニーをしていたそうだ。それを聴くと顔が赤くなった。
この先輩、裕也との恋は私が大学を卒業して24歳になるまで続いた
彼のおかげで私の東京での大学生活は一気にバラ色となり、寂しいはずだったひとりぼっちの青春に花を添えてくれた
裕也の卒業間近の、ある冬の日
「卒業記念に、お前と一緒にヨーロッパに行きたい」
と言いだした。オレは嬉しかったが、有り得ない話だと思い、すぐ断った。
「海外には興味ないし、そもそもヨーロッパだなんて、お金がない」
裕也は引き下がらなかった
「お前をロンドンのロイヤルフェスティバルホールに連れて行き、オーケストラを聴かせ、パリのオペラ座では、オペラを見せてやりたい」
と言い張った
「裕ちゃん、うそでしょ。そんなことできるの?」
裕也は
「僕ができると言ったらできるんだ」
と引き下がらなかった
私はその週末早速、茨城にもどり、その晩父にヨーロッパ旅行のことを切り出したら、「教員になるなら広い視野が必要だろうな」とあっさり承諾してくれ
「卒業したら教員になるんだぞ」という約束で
翌朝、父はまだ寝ている私の枕元に、100万円を札束をさっと置いて出かけていった。
裕也と私の願いは叶った。
ヨーロッパの10カ国くらいを回りながら、昼間は観光地を回り、夜はコンサートホールで音楽を聴き、ホテルに戻ると裕也と愛のセレナーデを交わした
今思えば、19歳のゲイとしてはかなり幸せな旅であった。
ある時、パリ市内の観光をしているとき、ガイドさんが
「後ろに見える病院がショパンの亡くなった病院です」
と説明した
「ショパンの心臓だけは故郷のポーランドに戻されたんですよね?」
と私が口をはさむとガイドさんに
「あなたショパンのこと、知ってるんですか?」
と言われた。
サッカー愛好会あがりの日焼けした田舎青年の顔に、ショパンはまるで似合わなかったのであろう。
8.大学のピアノ愛好会に誘われる
自然と言えば自然の成り行きだが、裕也の誘いもあって、ピアノ愛好会の練習風景を見に行くことにした。
さすがに全国各地から東京の大学めざして入ってきた連中がピアノを弾いている。なかなかの光景だった。
そのときたまたま当時の会長さんが
「君がうわさの、そして副会長がお気に入りのひでき君だね」
そしてピアノを指さして
「良かったら触ってみてくれ」
その時、すでにショパンだけでもかなりレパートリーを持っていたが、いつものように周囲のお育ちの良い女性たちは、
”何、あの泥臭い男の子?”
”ピアノなんて、触ったこともないんじゃないの?”
という顔で私を見ていた。
私は構わず、どかんとピアノの前に座り、いきなりショパンの即興曲やポロネーズを弾き始めた。
ポロネーズ6番の最後である「ダダダダ、ダッダ」を弾き終えたとき、会長が私の前にやってきて
「お願いだから入部してくれませんか?」
と握手を求めてきた。
私は田舎者の私を見下すような女性たちのほうを向いて
「会長さんがそこまで言うなら」
ともったいぶった表情で入部を快諾した。
というか、当時もいまも、ピアノは金持ちの子息の習う者、女の子の習い事、みたいなイメージがあるが
実際問題、有名なシェフも、料理人も、パティシエも、デザイナーも、男が幅を利かせている世界ではないか
どうして筋骨隆々逞しい男子が弾いてはいけないのだ
あの全身全霊、肉体で挑まなければならないピアノという楽器
どう考えても、か弱いお嬢さんのものではない、
ピアニストこそ大いなる肉体労働者のものなのだ
と思っていた
音楽というのは人を感動させるためにある
さらに
ピアノというのは自分の弾く曲を聴いて感動してくれる人のために弾くもののだ
そう信じていた
あるときは切なく、あるときは反響板を吹き飛ばすほど力強いピアニストになりたい
と思っていた
2年後、大学3年になったときに、もっとも聴衆を惹きつけられる曲を弾ける人間が会長になる、という慣例に従って
私はこのサークルの長にならざるを得なくなった。
私の大学は東大ピアノの会や早稲田ショパンの会の人たちと交流していたので、さらに人間関係は深まっていった。お互いの発表会を見に行ったり、身に来てもらって交流を深めた。
9.タイ移住15年後、ショパンの祖国ポーランドへ
それからどのくらいの歳月が経ったことだろう、大学も卒業し、裕也とも別れ、サークルで知り合った東大や早稲田の人たちとも疎遠になり、社会人になり、ほとんどピアノに触れることはなくなってしまった
その後、ピアノとはすっかり離れた人生になってしまった。
29歳のとき、北米での生活に疲れ、日本に戻ってきた。それから12年間、東京のアメリカンスクールでの仕事が軌道に乗ってきたにも関わらず、私はこのまま日本にいても仕方がない、と思い始めていた。
日本だと楽に生活はできると思ったが、日本という枠組みの中では、セクシャリティだけでなく、精神的には自由になれないし、自己実現や思い切ったこともできない、と思ったことも事実だ。
40歳になった記念に日本での生活を精算し、世界放浪の旅に出た、その1年後、東南アジアのタイに落ち着いた。
その後のことは別の機会に話したいが、パタヤーに来て10年、やっと人並の生活ができるようになった。何しろタイに来てからの数年、日本一時帰国どころかバンコクへ行くお金さえなかったのだから。
パタヤーで会社設立15年を記念してではないが、せめてものご褒美に連れ添って27年になるケンを連れてポーランドに行くことにした。2019年のことである。
10.首都ワルシャワとショパン博物館
私は昔っからひねくれもので、人と同じことはしなくない性格だった。
そんな感じだったから、いわゆるみんなが良い良いという国や観光地にはまるで興味がなかった。
裕也には悪いと思ったが、ふたりでまわったヨーロッパのうち、面白いなと思ったのは、ギリシャとスペインだけだった。
さてその後、30年以上の歳月が流れ、裕也とも別れ、新しいパートナーとなったケンとも27年のつきあいになり、気が付けば東南アジアのタイ・パタヤーで、商売を始めており、すでに15年が経過していた。
私たちが久しぶりのヨーロッパで選んだのは、フィンランドとポーランドであった。
実は前年にフィンランドとスペインに行っていたが、すでにヘルシンキもマドリードも中国人観光客で溢れかえっており、ヨーロッパの有名都市はどこも魅力的には見えなかった。
そんななか遠い学生時代の夢を追い掛けるがごとく、ポーランドを選んだのだった。
ポーランドという国やワルシャワという街は初めて訪れたので新鮮味に溢れていたが、ショパン博物館については、すでに彼の作品は心と体に染みついていたので、【心のふるさとに戻ったような懐かしさ】に胸が締め付けられた。
大学時代のサークルでのこと
初めて経験した男性との身体的接触
妬みや嫉妬の感情
同級生への片思いなど
いろいろなことがショパンの曲とともに思い出され、私はショパンのデスマスクを見たとき、しばらくそこを動けなくなった。
ガイドのマリアさんが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。
(マリアさんはワルシャワ大学の卒業生だった。現在ポーランドでは高学歴でも良い給料がもらえず、イギリス、フランス、ドイツなどへ出稼ぎに行っている人間が圧倒的に多いらしい)
この博物館がほかの博物館と違うのは、展示を終えたあと、ショパンファンのために、自由に音楽を聞かせてくれるフロアがあったことだった。
ここで私はマリアさんから1時間ほど時間をもらい、小学生のときからの思い出にずっと浸った。柏でのできごと、小学校や中学校でのできごと、大学時代のピアノサークルのこと、初めての恋人など。それらの思い出がショパンの曲とともに走馬灯のようによみがえった。
マリアさんが迎えに来てくれたときは、すっかり思い出の箱を閉じ、また新しい挑戦をしようと決意していた。
入口のところでケンが待っていてくれた。
ケンが近所におしゃれなカフェとケーキ屋さんがあるからそこでケーキを買って帰りたいと言いだした。
私の男遍歴は大したものではないがこうしていつも誰かが自分のそばにいてくれて支えてくれたことに感謝している。
1849年10月17日、フレデリック・フランソワ・ショパンは39歳の若さでこの世を去ったが、彼の残した音楽はピアノを愛する人々の間で永遠に生き続けるだろう。
ポーランドの首都ワルシャワについてはブログのこちらの部分
をご覧ください。
最後にみなさんにお願いがあります。
ポーランドのショパンゆかりの地を訪ねる映像とともに、エチュード作品10-3「別れの曲」をお聞きください。
長きにわたりおつきあいくださり誠にありがとうございました。