このときドライバーが所有していたこのミラージュがとんでもないボロ車であったことを、私たちは想像さえしていなかった。
ちなみにミラージュ(mirage)という言葉は、その響きからしてフランス語だが、そもそもラテン語で蜃気楼、幻想、妄想を意味する言葉である。
文字通り、私たちはこのミラージュに【幻想】を味わわされたのである。つまり、一杯食わされたのである。
【悲劇】というか【喜劇】は乗ったときから始まった。
まず、このミラージュには辛うじてトランクがあったが、そこにはドライバーの私物と思われる、衣類や小道具がたっぷり入っていた。
しかも、トランクからはなんとも言えないすっぱい臭いがしていた。
私たちはそれぞれ小さなキャリーバッグ(ミニスーツケース)を1個ずつ(合計2個)もっていたが、2個はどうしてもトランクに入りきれないとわかり、とりあえず1個をその汚いトランクの衣類と小物の上に置かせてもらった。(少し気分が曇り始めていた)
残りのスーツケースは、仕方ないので、助手席に載せようと、助手席側の扉を開けると、なんと ”ギター” がすべり落ちてきた。
(ドライバーはミュージシャンと思われる、愛用のギターをいつも助手席に置いているらしい)
ドライバーは
「何するんだ! オレの大切なギターを」
と半ば怒ったような顔つきで私を睨み付けた。
(ギターが落ちてきたのは不可抗力だよ、お前こそ大切な楽器をこんな不安定な場所に置いておくんだ、とは思ったが、おおらかなタイ人、いいじゃないか、ミュージシャンなんだろ、と思い直した)
「ソーリー、ソーリー」
私は謝った。(なんで客の私がお前に謝らなくてはならないんだ、と思うと、さらに心はブルーになった)
ドライバーはなんとか残りのスーツケースを助手席に落ち着かせ、ご愛用のギターをスーツケースをクッションにさせた状態で、私たちはやっとホテルを出発できることになった。
だが【悲劇】は始まったばかりであった。
ドライバーはラーマ4世通りに入ったあと、チョンブリ・パタヤー方面の高速入路に向かった。高速に入ったあと、耳を疑うようなことを言いだした。
「あっ、ガソリンが入ってない」
続けて、
「あのさ、ガソリン入れてくんの忘れたから、一旦高速降りて、これから給油するわ」
その物言いは、まるで高校時代の友人よろしく、かなり軽い感じであった。
申し訳ない、という感じはこれっぽっちもなかった。
さらにドライバーはこんなことも言ってきた。
「パタヤーまで長いだろ、せっかくだから、メシも食っておきたいんだよね。お前ら2、30分ガソリンスタンドで待っててくれない?」
私はめまいがした。(こんなことってあるんだ?って感じ)
この瞬間、”タイ人相手に怒ってはいけない”、”イライラしてはいけない”、”落ち着け”、”ここで怒鳴ったら負けだ”、”喧嘩になる”、 ”悪い夢でも見ているんだ、と思えばいい”
と自分をなだめるのに必死だった。