最近のユーチューバーについて思う

富士の樹海で死体を撮影しアップしたアメリカ人ローガンポールのことが話題になっている

 

ユーチューバー(YouTuber)とは自主的に制作した動画を継続的に公開する人間のことで、YouTubeの動画再生によって得られる広告収入を主な収入源として生活している。

 

そのユニークかつ奇抜なタイトルで視聴者の関心を引き寄せ、視聴者の求めている情報を提供することにより、クリック数を稼ぎ、自身は広告収入を生活の糧としているらしい。

 

ほとんどのケースが、視聴者自身が知りたい、体験してみたい事柄を代理体験し、情報提供してもらっていることになるので、視聴者にはありがたい部分があり、そこに価値があると思われる。

 

ユーチューバーに中高年はあまりおらず、生まれたときからPCやネットの環境にあり、そういったものに親しんできた若い世代が多い(10代~30代)。

 

ユーチューバーには心理学やセールステクニックを学んだ者もおり、それが成果を上げると、場合によってはローガンポールのように億単位の収入を得る場合もある。

 

これらの人間たちを羨ましく思ったり、あこがれたりする人も多いことだろう。

 

私(ひでき)自身も、もっと遅く生まれていたら、このようなことができたかもしれないし、もしかしたら自分の製作したものが大ヒットとは言えなくとも、そこそこ売れたのでは、と思うことがある。

 

 

しかし・・・である

 

 

私自身の感覚で申し上げれば・・・

 

ユーチューバーにあまり良い印象がない

 

というか、熟練、品位、礼儀正しさ、思いやり、愛情、裏づけとなる哲学をほとんど感じないのである

 

要するに騙し、脅かし、驚き、不安煽り、好奇心刺激のテクニックを利用し、なんでもかんでもアップし、クリック数で儲けようという姿勢が見て取れるのだ。

 

そこに視聴者への愛情が少しでもあれば、見る側は動画を見たあとに温かい気持ちになるはずなのである。

 

しかし、たいていの場合、もう二度と観たくない、という気持ちになるものが多い。

 

(そこに、いいだろう、面白いだろう、オレってすごいだろう、という宗教的グルの意識が感じられるからかもしれない)

 

 

確かに彼らの視点、切り口はユニークであり、キャッチーなタイトルを考えたり

 

誰も考えないようなアイデアを紹介するのはすごいと思うし、偉いと思う

 

 

人生一回きりだから普通のサラリーマン、型にはまった人生を生きるのではなく

 

新時代の人間らしく、新しい方法で収入を得ていこう、というスタイルは評価したい

 

 

ただ、いかにもというタイトルで他者を惹きつけたり

 

どうみても浪費、無駄遣いと思える行為や

 

興味本位で他者への気遣いを忘れたような動画

 

は掲載しないで欲しいと思う

 

 

それらは見る側を不快にさせ、不安を増幅させ、気分を悪くするから

 

 

 

もちろん視聴者側に責任がないわけでもない

 

なんでもかんでもクリックしてはいけない、と思う

 

 

ちょっと出来すぎ、と思われるタイトルや

 

誘惑的なタイトルの動画は

 

あえてクリックしないでおこう

 

そんな勇気を持つことも必要だろう

 

 

視聴者にはコンテンツの危険性や質の判別能力が求められるのである

 

 

輝くものすべて金ならずで

 

ニセモノのゴールドも、しばらくの間は

 

メッキの力により、輝くのだ

 

 

でも時間が経てば、本物かどうか

 

わかってしまうだろう

 

 

ほんとうにユーチューバーが、世のため、人のため、社会の向上のために動画を作っているなら

 

長い期間、人々から愛され続けるだろう

 

そうでないなら、時間の問題で消えてゆくだろう

 

 

それもまた自然の摂理なのだと思う

 

 

私がここで偉そうにコメントすることもない

 

 

 

メッキはやがてはがれるもの

 

というか

 

はがれるようなものがメッキなのだ

 

 

我々は誰から何を言われなくても

 

 

メッキのような人生を送りたいか

 

それとも

 

輝くものを提供する人生を送りたいか

 

答えは自分自身がわかっているはずだ

国王死んで泣いた

昭和天皇が亡くなったときは涙が出なかったが

 

なぜかプミポン国王が亡くなったと聞き、不思議と涙が溢れてきた

 

 

個人的な話になるが・・・

 

そして、当然のことながら、私自身国王に会ったことはないが・・・

 

 

崩御の知らせを聞いたとたん

 

あの曲が突然心の中で流れ始め

それが頭の中で何度も繰り返されたのである

 

そして思わず涙が出てしまったのである

 

 

あの曲とは・・・

国王を称える歌である

春の穏やかな日差しのなかに、うっすらとした悲しみと愛情を感じさせる曲である

 

実はこの曲、タイの映画館では上映開始前に当たり前のように流れる曲だが

 

 

それが私がタイに来てからの日々と重なっていて

 

 

万策尽きて、どん底の日々にあって

 

旅行者のように楽しむこともできなくなったとき

 

なけなしの100バーツで映画を見に行ったときに遭遇した曲だった

 

 

思えば・・・

 

 

タイはゲイに優しい国

 

という安易な思い込みだけでそれまで滞在していたスペインからタイに移動し

 

まったく何の計画もなく起業してしまい

 

その後、半年間は集客の見通しもつかず

経費ばかりが出てゆき

所持金が減るばかりの日々だった

 

明け方、ひとり浜辺を散歩しながら

 

 

”ああもうすべて終わりだ”

”自殺するしかないな”

”自殺するならあの岩がよさそうだ”

”いっそあそこから飛び込んでしまえ”

 

と思っていた

 

ケンジには内緒だったが

何度もそう思っていた

 

 

私に自殺を思いとどまらせたのは

 

 

・ケンジがひどく悲しむだろう

 

・死体を日本に搬送してもらうのはかなり大変そうに思えた

 

 

という二つの理由だった

 

 

思えばあれが一番つらい時期だった

 

 

 

王様には申し訳ないが

この曲は国王への想いというよりは

そのときの思いに重なっている

 

 

 

それでも国王はわれわれに近い存在だった

 

 

昼も夜も

街中でも国内どこにいても

いつも我々を見てくれていたあの方

 

それが国王だった

 

優しい顔をしたあの方はもういないのだ

 

そう思うとまた涙が出てくる

 

国王は自分にとってタイのお父さんだった

 

でもタイ人にとってはこれからも心の中に生き続けるお父さんなのだ

 

タイ国民よ、悲しいでしょうが

それでも、元気を出してください

 

みなさんが笑顔で働き

 

みなさんが笑顔で観光客を迎えてくれることを王様もお望みだと思いますよ

 

日本人もタイ人も同じです

 

あなたたちは私たちの大切な友人、そして家族です

 

 

最後に

 

ありがとう、お父さん

 

 

 

そして

 

 

さようなら、お父さん

 

 

合掌

 

 

 

 

 

 

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