好きになっちゃったポーランドその1(東欧美男とショパンへの思い)

 

8.親切な人が多いんだな、ポーランド

ポーランドはヨーロッパでも指折りの親日国である。いま騒がれているイランやトルコも親日だが、ワルシャワ大学には日本語学科があり、そこには日本語がペラペラな学生がたくさんいるらしい。

私たちの場合も、たまたまアパートのオーナー夫婦が非常に親切かつ良心的な人で、英語も堪能であったため、渡航前からいろいろ教えてくれ、意気投合してしまった。

こういう場合、旅先での出会いが重要になる。最初にどんな人に出会うかが、その国の印象を決めることになる。

結局、その親切過ぎるオーナーはワルシャワ空港(ショパン空港)まで迎えに行ってあげる、と言い出してきかず、本当に空港に迎えに来てくれた。

ワルシャワのショパン空港からワルシャワ市内まで民間のタクシーに乗れば日本円で1000円くらい(7ユーロ)で行けるんだよ、と教えてくれた。

現地のタクシー代はものすごく安いと聞いていたが、安かろう危なかろうは絶対に避けたい!とタイで経験していたから、お金は払ってもいいから安全な方法はないか、と模索していたところだった。

生まれて初めての空港から街までの流しタクシーは嫌だから、50ユーロ(だいたい6,500円)から60ユーロ(7,800円)出しても構わないから、エスコートタクシーを依頼しようと思っていたので、空港まで迎えに来てくれたオーナーさんに、せめて40ユーロでも受け取ってもらえないかと渡したが、とんでもない高額だと言ってもらうのを拒否された。

ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港

それでも「ここまで親切してくれ、いろいろ手配してくれ、その感謝として受け取ってほしい」と強く申し出たたら、やっと受け取ってくれた。

こういったやり取りから、ポーランド人は、まるで日本の田舎の人みたいに親切で、思いやりがあるな、と思ってしまった。

それだけではない、私たちがアパートに着くと、奥さんが地元で最も有名だという陶器と菓子をお土産として、我々のために用意して待っていてくれた。

ワルシャワに到着したその日は最高気温が36度と、この時期の中欧としては最高気温ではあったが、日本と違って蒸し暑さのないポーランドでは、冷房装置というのは一般的ではなく、備え付けの扇風機で十分であった。翌日からは気温が下がり、快適な滞在となった。

オーナー夫婦は「どうか私たちの国ポーランドで良い思い出を作っていってください」と言って去っていった。

かなりおしゃべり好きの人たちだったが、旅人の疲れを思いやり、必要なことを説明し終わると、早々に立ち去って行った。こういった気遣いは日本人だけでなくヨーロッパ人にもあるのか、と思って感動した。

この旅で出会ったアパートのオーナー夫婦以外にも、観光ガイドさん(2名の女性)、仲良くなったレストランの店員、青果市場の人々、ショパン博物館の店員など、どの人とも気持ちよく接することができた。

タイ人ほど人懐っこくないが、もっとチップをくれよ、とか、余計なものを売りつけたり、知らない場所に連れていってカネをよこせとか、脅されたりとかいう不快なことは一度もなかった。

ポーランドは貧しいどころか、いまや経済発展著しい国であり、国民は政府を信頼し、民主主義が息づいており、人々の価値観はしっかりしており、道徳教育や衛生教育、芸術や情操教育、ITやハイテクに関する教育が十分に施されている国である、と感じた。

かつてはロシアに次ぐ広大な領土をもっていたポーランドだが、二度にわたる大戦とロシアとドイツの占領に遭い悲痛な過去を味わったポーランド。

その国は今輝かしい変化を遂げ、周辺国からの出稼ぎ労働者が必要なくらい発展している。

9.LINEではなくWhatsappが人気のポーランド

いま世界で最も多く使われているのが緑色=Whatsappだそうです。オレンジ=We Chat(中国が中心) 黄色=LINE(日本、台湾、タイなど)、北米オーストラリア一部ヨーロッパはFacebookメッセンジャーが主流だそうです。

ポーランド人はWhatsappをよく使います。昨年訪れたスペインやフィンランドでも同じでした。

 

10.ワルシャワ旧市街(歴史地区)を歩いてみて

まずは写真を見ていただきましょう。

 

1944年、ポーランドではナチス・ドイツに対する抵抗「ワルシャワ蜂起」が起こったものの失敗し、報復のために街は徹底的に破壊された。

しかし、ポーランド人は街の再建を諦めなかった。当時街の風景を絵画で残していた彼ら(主に建築学科の学生たちのスケッチ)は当時の支配者であったソ連スターリン様式の街並みに作り替えることに断固反対し、レンガのひび一つに至るまで元どおりの再建を望み、それを成し遂げた。

ポーランド人の自国に対する深い愛着もそうだが、二度にわたる侵略の不幸を味わってきた国民は、もう二度と自分たちの国を他国に踏みにじられまいとする意志のもとに、市民総出でこの街を再建した。

この再建への熱意こそがポーランドの誇りではないかと思わざるを得ない。