帰る場所のないパタヤの子供たちに

孤児院と聞いてみなさんは何を思い出すだろうか?

暗く電気もろくに通じていない木造の建物と不穏な雰囲気を漂わせる空間、そこにたくさんの親から捨てられた子どもたちがひしめき合い、事情があってそこにしか居られないにも関わらず、心無い言葉を吐くボスのような存在・・・それはまるで芦田愛菜演じる孤児院を扱ったドラマ「明日、ママがいない」のようだ。

パタヤーに来て間もない頃、ケンと私は同胞(ゲイ)を助ける仕事、という理念がいまいち具体化せず、進むべき道を模索していた。

ある時、パタヤーのスンニプラザという場所に「子どもの家」という名前の孤児院がある、という噂を聞いた。(スンニプラザとは少年の街として知られるパタヤー第二のゲイタウンである)

パタヤーというリゾートの歓楽街では、夜の商売に身をやつしている人間はかなりの数であった。学歴も技術もスキルももっていないタイ人にとっては、手っ取り早く現金を稼ぐ方法はバー勤めぐらいしかなかった。

ここで驚くべきことに女性の多くは結婚していて、妊娠経験があり、子どももいるという。

夜の商売で成り立っている街ゆえ、子持ちのホステスも多く、結果子育てを諦めたホームレスやストリームチルドレンも多く見られた。

夜の商売をしながら子育てをする、というのは母親にとって大変な負担である。常連客がついたとしても常に不安定なバーの収入では子どもを満足に育てられなくなり、しまいには子どもを手放すことになってしまうのである。

親に捨てられた子どもたちは、ほどなくして同じ境遇の子どもと知り合うようになり、仲間と街をふらつくようになり、寝場所を探し、残飯をあさるようになるのだ。中には目利きのする子がいて、スンニプラザなどの飲み屋を回って客を見つけるような子も出てくるのだ。児童買春を自ら申し出るわけだ。

20年前のパタヤーでは普通に見られる光景であった。このパタヤーに高層ビルがそびえたつようになっても、その数は決してゼロになっていないように思える。大きなビルの陰には捨てられた子どもたちが雨露しのぐ場所を求めて隠れているのである。ただ、彼らは目立たないだけなのだ。

パタヤーの街にいるのはホームレスだけではない、住む場所もなく、行く当てもなく、食べるものもなく、着るものもなくただあたりを彷徨っている子どもたちもそうなのだ。

 

私たちがやって来るずっと前に、カトリックの使節団としてタイにやってきたレイモンド・ブレナン(のちのレイモンド神父)は道端で物乞いをする大人や子どもたちを目にして

「どうしてここにはこんなにたくさんの貧しい人がいるのだ。子どもたちはどんなところに寝泊まりしているんだ?」

と不思議に思ったそうだ。

やがてレイモンドは「これはまともな状況ではない。こういう状態を放置してはいけない。なんとかしなければ」と強く思い、とりあえず始めた仕事が孤児院「子どもの家」だったという。

(詳しくはファーザー・レイ財団の歩みをご覧ください)

私たちはそのような立派な取り組みをしている場所を一度でいいから訪れてみたい、と思った。

私たちは、孤児院の手伝いはできなくとも、子どもたちに会ってみたい、小額でもいいから寄付をしてみたい、という気持ちになっていた。

子どもの家と呼ばれるものは当時、すでにスンニプラザにはなく、現在のスクムビット通りに移転していて、レイモンド神父とその仲間たちの努力によって立派な施設をもつ大きな財団に成長していた。神父はすでに他界していた。

財団で今では保育園から高校、職業訓練校までもつ一大教育機関になっていた。両親から見放された子どものほかに、肢体不自由な子どもたち(両足、両手のない子や弱視から全盲の子どもたち)まで受け入れているのであった。

電話で「私たちはやしの木という小さな会社をやって、ゲイ(同性愛)の日本人を助けている会社ですが、一度見学させていただきたい、寄付もさせていただきたい」と申し入れると何も聞かず、快く受け入れてくれた。

「どこ国のどのような背景を持つ方であっても、財団の趣旨に賛同してくださるなら、私たちは歓迎します。早速、迎えの車を差し向けましょう!」とわざわざ迎えの車を用意してくれた。

当時もいまもレイモンド神父の共鳴して財団に入り、外国人の案内とサポートを担当してくれているのはイギリス人のデレック・フランクリン氏であった。

デレック氏は丁寧に施設を案内してくれ、子どもたちとともに私たちを歓迎してくれた。「お昼が近いですから、一緒に食べて行きませんか?」と子どもたちのために作った食事を、子どもたちと同じ食堂で食べさせてくれた。

財団で出会った子どもたちはとても明るく屈託がなかった。彼らでさえTOYOTAやMITSUBISHIは知っていたが、何より彼らはアジアのどこか知らない国からやってきたおじさんたちに臆することなく話しかけてきた。

子どもたちのなかには両腕がなく首にカバンをかけて歩いている子もいた。全盲の子で白杖を突いて歩いている子も、両足がなく車椅子で動いている子もいた。

しかし、彼らのその瞳は想像していた陰鬱な子どもの眼ではなく「ボクらはみんな元気、ボクらは仲間、君たちも一緒だよ」と言っているかのようだった。

何の恐れも儀礼もなく刷り込まれた知識もなくただ目の前の人間に対して素朴な興味を抱いてくれた。

彼らのキラキラした瞳、いったいそれは何なんだ、と思った。日本の子どもたちには悪いが、日本の普通の小学生とは全然違うようなオーラを放っていた。

それはもしかしたら、菩薩様が彼らに成り代わってこんなことを言っているようにも思えた。

お前いままで落ち込んでいただろう?

着る服がない、おしゃれな靴が買えない、とか嘆いていただろう。

ならヒデキ、オレたちを良く見るんだ!

オレたちには袖を通す腕もないんだ。靴を履こうにも足がないんだ。

お前、何年人間やってるんだ? まだ、そんなことでくよくよしているのか?

いまは落ち込んでるだと??? お前、ガキみたいこと言うな

 

子どもたちは笑ってはいたが、その澄んだ瞳の中に、厳しさと鋭い視線を感じた。それは我々に何かを気づかせようとしているようにも思えた。

それは同時に春の太陽のような温かさもを感じさせた。

それは父や母から先生など絶対的な立場にありながらも、親しい人たちから許されたような温かい気持ちであった。

 

この小さな菩薩たちの集団はこんなことを言っているように思えた。

いまのお前はそのままでいい

なにかを無理してやる必要はない

ただし、与えられた命を精一杯生きなくてはいけない

自分のためだけでなく、一緒に生まれてきた人たちのことを思い、その人たちを助けることでお前は助けられるんだ

自分をそんな気持ちにさせてくれた

 

見学を終え、家に戻る車の中で、温かい気持ちになるとともに、涙が出てしまった

 

そして、心から反省した

「オレはいままで自分のことばかり考えていた、自分を憐れんでいた」

「これからはどうしたら他人を助けられるか、どうしたら他人を喜ばせることができるか考えるべきなんだ」

と気づいた。

またこの財団を訪問したい、と思った。

財団の子どもたちは、我々が届けたわずかの寄付とは釣り合わないくらい大きな元気と勇気をくれた。実際この訪問を終えてから順調に顧客が増え始めた。

 

ここでたいていの人間がたいてい気づかないでいる、地球の真理もしくは宇宙の摂理のようなものに思いを馳せた。

我々はひとりでは生きられない。

この世界に生を受けて生きているのは両親のおかげだが

我々は太陽を浴び空気を吸い水を飲んで生きている

そして食物から栄養を取って生きている。

太陽と空気と水は天の神様から無料で与えられている

植物もそうだがそれを我々に供給してくれているのは農家の人だし

我々のところまで届けてくれているのは運送人だ

我々が生きていられるのはそういった生産する人々がいるからだが

我々が生産者に代価を払わなければ、彼らも生きられない

我々は食べ物を買うことによって生産者を養っているのだ

と同時に、我々は彼らがいないと生きていけない

彼らがいることにより、彼らに養われているのだ

養うということは養われている、ということと同義だ

 

地球上で生きる限り、その原則は絶対に外せないのである。

このことはたいていの人が、たいていの場合、忘れている。

 

話を孤児院に戻すと、我々は孤児院に寄付して、彼らを助けてやったような気になっているが、その行為自身、我々を助けているのだ。

よく忘れがちなことだが、遠い国で起きていることが、離れた自国にとってはとても大事なことになっている、ことも多い。

一見、日本とタイは遠く離れた異国のように思えるだろうが、そうではない。

みなさんは、何年か前のタイ東北部大洪水のとき、日本の自動車工場が水に浸かり、創業がストップしてしまったことを覚えておられるだろうか。

そのとき、タイからの部品が日本に届かなくなり、国内の生産ラインがストップしてしまったことを覚えているだろうか。タイの洪水は結果、日本の自動車生産に支障をきたした。

日本と中東諸国は石油で繋がっている。石油がなければ日本は一日たりとも生活できない。同じく日本と東南アジア、日本と欧米諸国も似たような相互依存の関係にある。

もし、日本の将来を憂うならアジアのことも同時に憂うことになるのだ。アジアにこれ以上、貧困や身よりない子どもを作ってはいけない、と思うことは飛躍した論理だろうか。

養うということは養われている、こと。

日本はアジアの一員であり世界の一員である、こと。

他者の助け無くして自分も生きられない、こと。

遠い小さな国の小さな子どもたちを助けることは、遠くない将来、自分たち自身を救うことになる、という事実。

 

私は遅ればせながら、この事実を自覚したのであった。

 

残念ながら、私はアメリカ第一主義を掲げたトランプという大統領を好きになれない。確かに衰退しつつあるアメリカは自分の足でしっかり立って歩かねばならないのだが、その前に世界は相互不可分の関係にあるのだから、どんなことがあっても、世界とは協調して、相互理解の上に物事を進めねばならないだろう。一方的に規制や締め付け、圧力をかけて相手を従わせようとする姿勢は先史時代的である。アメリカは世界の面倒を見てやっている、というような口の利き方は避けたほうがいい。アメリカこそ世界から養われているのだ。